【作家からのコメント】
今回、広島の地で『 ICHI-GEI OIL PAINTING SEVEN 』展を開催できたことを大変嬉しく思います。尚、この展覧会を開催するにあたりお世話になったLギャラリーの皆様、また、僕の拙い呼びかけに喜んで手を差し伸べて下さった広島市立大学油絵科の大学院の同級生の皆様に、心から感謝申し上げます。
2006年に広島を離れてから10年余り、数々の場所で展覧会をして、仕事の面でもプライベートの面でも様々な経験を重ねてきました。しかし、思い返すと、広島で過ごした事こそが、僕の人生の分岐点だったように思います。
写実絵画を学びたいと、専門にしている学校を探し出し、入学し、初日の学校説明会にて、「写実なんてやろうとしている学生なんてつまらん。」という教授の度肝を抜かされる発言から、僕の広島市立での大学院生活は始まりました。
ここでは、僕の広島での目まぐるしい日々を、充実したものにしてくれたクラスメイト達をご紹介させていただきます。なお、実際の本人の考えや事実と食い違う点もあるかと存じますが、あくまで僕の『思い出の中のイメージ』ということで、ご勘弁ください。当時の広島市立のアトリエの雰囲気が少しでも皆様に伝われば幸いです。
今井良枝さんは、いつも忙しそうな人でした。それは、驚くべきことに彼女は、県外の山口県から広島市立に高速バスで通学していたというのです。何時間かかるのかは知りませんでしたが、行きも帰りも彼女が走っている姿ばかり見ていた気がします。彼女は、山口から遠路遥々乗ってくるバスが、広島市立大の一つ手前の停留所で終点になってしまい、そのせいで毎朝、また学業が忙しくなった際などは、毎度そのバス停一区分を走らなくてはならない。せっかくであれば、もう一つぐらい乗せてくれてもいいのにとよく愚痴をこぼしていたものです。また彼女は学業に対するバイタリティーも凄く、大学時には取れなかった資格や、興味を持った科目であれば、卒業単位に含まれない学科外の授業にまで受講しているイメージでした。教授陣との交流も多く。昼食も何か用事があるのか、アトリエを駆け出すように出ていき、僕なんかは話しかける間も無いこともしばしばでした。修士課程の修了後も大学に残り、その後は、美術解剖学を本格的に学ぼうと北海道の札幌医科大学にいったそうです。また、そこから帰ってきてからは、市立大も含めて広島の二つの大学にて解剖学の講義を任されるようになったのですから、それは本当に凄い事だと思います。今は大学の講義と共に地元、山口の周南市美術博物館にて学芸員の仕事もしているそうです。繰り返しになりますが、本当に凄い事だと思います。風の噂では、僕が広島市立を卒業してから間もなく、彼女が要望していたのか高速バスは、大学の近くまで運行される様になったそうです。僕としては、この事も彼女の偉業の一つだと思っています。
白石義和君は、一見すると優しく清潔感があり静かで、人を傷つけるような事はけして言わない人物であります。ただしかし、彼は良く見ている人でありました。日頃はあまり積極的には喋らないのに突然、誰もが気づかないような部分を指摘した時などは、皆を驚かせたものです。僕なんかは白石君とはわりと一緒に過ごす時間も多かったので、彼のそう言った物事に対する鋭い指摘や秘めた毒舌家な部分は、慣れてると同時に関心させられるものでした。僕が思うに、彼にとって重要なこととは、例えば、作品を完成させる事や、物事を上手く運ばせる事ではなく、それらの動機だったのではと思っています。驚くべきことに世界が存在しているという感動そのことが、彼にとっては唯一、重要な事だったのではないでしょうか。僕の様に様々な出来事や事情に振り回されて息切れしてしまう事なんかは無く、彼の周りの出来事は、自然と整ってしまい、不思議な人でした。彼にとって作品制作は手段であり目的ではなかったのかもしれません。それは、形而上とか、存在論とか、もしかしたらイデアと言うのかは、僕にはわかりませんが、彼は、誰もがそれをあたり前のように受容するけれども、誰しもが説明する事が出来ない、そんな世界の真相を観察しようとしてアトリエにこもっていたのかもしれません。彼にとってはそれだけが真実であり、興味を注ぐに価する事で、絵画制作や作品が完成する事は、その延長線上の結果でしか無かったのだと思うのです。
寺林武洋君は、実直で真面目な性格で粘り強く、あまり小言を言わない、殆ど無口に近いひとだったと思います。しかしその反面、どこで仕入れてくるのか、分かりませんが、大学の事情から、東京で活躍している作家の状況まで詳しく。僕は、根掘り葉掘りと聞かせていただき、大変勉強になり有難かったものです。実直で真面目で粘り強く、無口なその性格は、彼が雪国として有名な北陸地方の真ん中、富山県の出身者であり。雪原の厳しい風土で育ったことが、関係しているのでは無いかと、彼自身と話した事があります。僕なんかは、そういった彼の原風景ともいえる、北陸の白い大地を描いた作品なんかも見てみたいものだと思ってしまいますが、今のところ、寺林君は考えてないようです。実直で真面目な性格の彼は、粘り強く。ユックリでも丁寧に、着実なステップアップをしており、もしかしたら僕ら同級生の中では一番、作家として地に足をつけて成長しているかもしれないと、僕なんかは自分の事を振り返って思ってしまうものです。とある美術雑誌に、彼と有名な美術史家の先生との対談が何ページにも渡って掲載されているのを発見したときには、驚き、またクラスメイトとして誇らしかったものです。
廣戸絵美さんについて。本当か嘘かわかりませんが、僕が入学時に聞いた噂では、ある時、大学内のアトリエの使用時間を、作品制作のためにもっと長く使わせてもらえないか交渉しようと、クラス内で盛り上がったことがあったそうです。もちろん、教員側は生徒の安全や施設の管理また、他の学年とのバランス等で難色を示すのは必至であり、通るはずの無い生徒の要求でした。すると、その様子を横目で見ていた彼女は事態が難航することを予想して、なんと、教室の外、廊下の行き止まりになっている一角に、目星を付けるとそこにイーゼルを運び込みパーテーションを並べ自分のアトリエにしてしまったと言います。それは、アトリエの使用時間に頭を悩まされ続ける僕ら美術系の学生にとって、本当に驚くべき発想であり、そのことに文句を言わせないのは、彼女のこれまでの実直なまでの絵に対する姿勢とその成果を皆が知っているからこそもたらされた結果であり勝利だと、僕は話を聞いて思いました。絵画を制作していると日常の様々な物事がその障害であり、作品を制作出来ない理由になってしまいます。学生であれば、アルバイトや講義であったりでしょうが、社会人になるとその理由は膨大なものになってしまいます。そんな時、彼女のその作品制作への執念とも言える凄まじい姿勢は、僕にとって学ぶべき姿であり、また励まされます。一体、あの小さな体からどうしたらそこまでのエネルギーが出てくるのか、本当に凄い事だと思います。
三木はるなさん。僕の勝手ながらの彼女のイメージは、”後天的な人たらし”であります。そんなことを言うと怒られてしまいそうですが、彼女は良く考えている人でありました。自分が周りから何を求められていて、何を成すべきか、自然に配慮してしまうのかもしれません。結果的に彼女は、絵の事ばかりで人との関りは二の次であるクラスメートの中で、元気で、はつらつと明るく、振舞ざるを得ないのではと思っていました。いつも輪の中心で、皆に話を振ってくれ、先輩後輩、教授陣からも評判が良く、彼女が居るか居ないかでは、教授の話の盛り上がりが大きく違ったものです。喋るのがあまり得意でない僕なんかの話も丁寧に聞いてくれました。そこには、どんな人物に対してにもリスペクトが在り。生きていると言う事だけで本質的な価値や重さを持っていると言う事を、彼女は肌で知っている人なのではないかと、僕は思っていました。
向川貴晃君は、確実な技術力を持っており、愛する家族をテーマにした作品を制作していました。彼の凄いところは、クラスメイトとの些細な雑談の中でも、自身のテーマの話題を話すところです。もしかしたら彼は一日中テーマについて思索している、むしろ殆どそれは彼にとって自然な事であるかのように思われて、そんな彼の一つのテーマを追究しようとする姿勢に、僕は感心していました。彼とは卒業後、何年かしてから、大阪のとあるギャラリーが主催していたグループ展で一緒になったことがありました。その何年かぶりの再会の際、彼は、僕を大変、驚かせたものです。本当にびっくりしました。当時は、男性ではまだ珍しかった腰までのロン毛の”ヴィジュアル系”スタイルでギャラリーにあらわれたのです。ギャラリーに着いてからは、海賊がしているような黒の眼帯まで装着していました。聞くに広島から眼帯を付けっぱなしでは、長時間で目が疲れるとのこと。そんな事よりも、服はまだしも、革製の眼帯は、どんなお店で買うのか 受注生産なのか、そもそもその大変に目を引く格好で広島から新幹線に乗ってきたのかと、戸惑いさらに彼の本気度を垣間見た気がしました。彼が言うには、元々僕に会う前からヴィジュアル系を志としており、今の様にSNSがここまで全盛していなかった時期から、インターネットで自身の ビジュアル系HPを立ち上げ、ブログ活動をしていたそうです。そのフォロワーやファンは多くその道では知る人ぞ知る結構な有名人だったそうです。僕が出会った時には髪が短かったのですが、それはとある珍事件を切っ掛けにして、 彼は中性的なヴィジュアル系スタイルを封印してしまっていたそうなのです。そして、僕の卒業後にヴィジュアル系活動を本格始動したようです。まったく知らなかった僕は驚きでありました。彼の一つのテーマを追究しようとする姿勢に見せられていた僕には、それは全くもって凄い事であり、また感嘆させられるものでした。そしておそらく、向川君の古典絵画における確実な技術力は、そういった一つのことを追究しようとする彼の熱意の賜物なんではないかと思っています。
以上6名プラス僕、(有吉宏朗)で、『 ICHI-GEI OIL PAINTING SEVEN 』展を実施する運びとなりました。また、最後になりましたが、僕、有吉の自己紹介も簡単にさせていただきます。ここまで来て、こんな告白をするのは、少し心苦しいのでありますが、実は、僕が広島にいたのは、修士課程の二年間だけであります。それは、学部から一緒に上がってきたメンバー。又は、修士修了後も色んな形で大学に残ったメンバーと比較すると、共に過ごした時間は圧倒的に短く、もしかしたら、まだ一人、新参者と言えるのかもしれません。しかし、今回、持前の、どん臭さと、しつこさで、クラスメートに泣きつき、何とか、この展覧会に漕ぎ付けることが出来ました。それは、皆があのアトリエで何をしていたのか、僕らがなにを追いかけていたのか。忘れてきてしまった課題を取り戻すように、今はもう、社会に出て少しずるくなった目で、見つめてみようとする企みであり、確認をしようとする試みであります。
皆様にも、当時のあのアトリエで僕らがいったい何を考えていたのか、見て頂ければ幸いです。