【インタビュー・ひろしまブンカDIG】第2回 : 伊藤敏さん
2023.5.17(水)
【ひろしまブンカDIG】
広島市内にはかつてどんなシーンがあったのか。可視化されにくかった時代の、文化シーンの場を作り、支え、生み出してきた人たちへのインタビューシリーズ。広島にもこんなシーンがあった、というのを再発見していきます。
第2回:伊藤敏(いとう・さとし)さん。
1953年生まれ。詩人。1978年に「〈ラ〉音」「裏祭り」を詩誌『ユリイカ』に掲載。1984年詩集『航海日誌』、2020年詩集『針ノ木』刊行。80年代に広島大学近くの宝町にて学生たちに自室を開放した〈すぺーす・宝船〉主宰。
インタビュアー:平石もも(92project/ひろしまアートシーン)
ビンさん、と慕われる伊藤敏さんの自伝的詩集『針ノ木』には〈すぺーす・宝船〉という場所について書かれたものがありました。30代で会社員だった伊藤さんは、当時、市内にあった広島大学のキャンパスに近い宝町の自室を大学生に開放し、夜な夜な討論をラジオとして放送したり、同人誌を作ったり、テント芝居を呼んだり、映画を流したり、コンサートを開いたり。若い人たちの文化拠点として数年存在していた〈すぺーす・宝船〉とは一体何だったのか?インターネット検索では見つけられないシーンを直接ご本人にお伺いすることにしました。取材当日は、〈すぺーす・宝船〉に集まっていた方々も来てくださり、改めて皆でその場所を振り返っていただく座談会のようになりました。その会場の様子もまた、〈すぺーす・宝船〉のようでもあったのかもしれません。
(2023.1.14)
〈すぺーす・宝船〉インタビュー当日同席者
M)文化サークル連合 新聞部。〈すぺーす・宝船〉開室から関わる
K)広島大学祭実行委員会。〈すぺーす・宝船〉初期から関わる
タロウ)広島大学の青雲寮を出たのを機に〈すぺーす・宝船〉を我が家とする
出岡)高校生時代にバンドメンバーに誘われて〈すぺーす・宝船〉に通うようになる
すぺーす・宝船ってなんだったんですか?
目次
・〈すぺーす・宝船〉はどのように誕生したのか /1984
・〈すぺーす・宝船〉にはどんな事があったのか? /1985
・〈すぺーす・宝船〉に新しい風がやってきた /1986頃-
〈すぺーす・宝船〉はどのように誕生したのか / 1984
「僕らも今、洗脳されてるんよ。それにちゃんと、どうやって抗えるか。」
平石) 何なんだろうこの場所は?っていう私の単純な疑問から今回のインタビューに至っています。
その前に、〈すぺーす・宝船〉を立ち上げる背景からお伺いしたいなと思います。
敏さん(伊藤敏さん)ご自身は当時、大学生ではなく、社会人で壁紙のデザイナーとして働かれていました。32-3歳ぐらいだったのではないかなと思うんですけど。
伊藤)〈すぺーす・宝船〉ができたのは1985年の1月って書いてあるので、そうなんでしょう。前の年にあたる『1984年』っていうジョージ・オーウェルの小説があるんですけど。小説では要するに世界が第三次世界大戦が起こった後に、世界が3つの国にわかれるんですよね。オセアニア、ユーラシア、東アジア。どこも全体主義の国なんですよ。
それで洗脳して個人を管理するっていう。管理というより、監視だね。
洗脳して個人監視してっていうのは僕は今だと思ってるんです。インターネットで、ものを買うでしょ。全部見られてるんですよね。洗脳とか個人監視って事に僕はまず危機感があったと思います。
一方で、広島大学では学生が粉川哲夫さん(メディア批評家、ラジオアートパフォーマー。)を1984年の6月祭で呼んで、講演会をしていたんですよね。
その時は、僕は社会人だから知らないです。広島大学生の文化サークル連合(文サ連)新聞研のMと反原理(※「反原理共闘」原理運動に反対する動きについては後述します。)のYが大学祭に呼んで講演会をしたんですよ。
当時、粉川さんが言ってたことはアウトノミアっていう、イタリアの政治運動。勝手にラジオをやったり、空き家を占拠したり、そういう動きがあったんですよ。
それと、今また話題になってる統一教会の問題も大きかったと思うんです。
(※統一教会=当時、世界基督教統一神霊協会。現、世界平和統一家庭連合。布教活動が「原理運動とも言われていた。以下「原理」と表記)
東京と広島には高等師範学校があって、広島大学の前身のひとつが広島高等師範学校(1902~1952)。東京は東京教育大学(現在は筑波大学)の前身が東京高等師範学校だったんだけど、それらが要するに教員養成の最高峰だったわけです。
そうすると、原理っていうのは、結局教師を信者にしてどんどん学校にそれを広めていこうっていう、そういう意図は絶対あったと思うんです。
もっと大きいのはやっぱり学生運動(全共闘運動)ですよね。学生運動の後、大学の自治会がなくなる。
それまでは全学連(全日本学生自治会総連合)っていうのがあって、そこでみんなで決めて、ストライキをするとかね。
でも、自治会がなくなるから、全学連も潰れてしまって、それから全共闘の方はいろんな新左翼党派だけの活動となっていった。広大の場合はそれまでの教養部(1964-1975)が総合科学部(1974-現在)に改変されて、そのまま教養部自治会がなくなった。
その中で大学祭の実行委員に原理研究会と言われていた宗教系サークルが介入してくるわけですよ。とにかくそれは駄目だ、って原理研究会というのを問題視してたからね。
大学祭実行委員会が僕を講師に呼んだんだよね。
1回目は83年の秋にYMCA、2回目は84年の夏くらいに西条で、勉強会合宿をしたよ。
それで、僕と大学祭実行委員会とは繋がったわけです。
平石)詩集にも書かれていますね。「自分で考える学生は大学祭実行委員ぐらい」と。
伊藤)今でもちゃんとマスコミが追求してほしいのは洗脳ってことだよね。
いつの時代だって起こるしね。僕らも今、洗脳されてるんよ。それにちゃんと、どうやって抗えるか。すごくそのことは大事だと思うよね。
だから言っておくけど、僕のこの言葉も洗脳かもしれんよ。そのくらい思って。
平石)最初から自室で借りてた場所を開放したのでしょうか?
伊藤)いや、当時僕は引っ越さなきゃいけなかったから、今度は部屋を開放するって決めてた。
それをMとYと3人で、大学の近くに部屋を借りて出入りできるようにしようか、って。
要するに広島大学の移転の問題があったんですよ。
平石)広大の略年表を見たら、移転にはものすごく時間がかかったそうですね。ある年に移転という感じでもなかった。
伊藤)当時は移転は決定してて、最初は工学部だった。順番に学部が移転していく。と、いうことは学生がいなくなるわけですね。せっかくだったら大学の近くに部屋を借りて何かできたらいいねって。
出岡)原理からのプロテクトみたいな感じだったんです?
伊藤)いやいや。洗脳する生き方と違うことをしたいの。わかる?
だって、お前ら全然俺に洗脳されてないじゃん(笑)。人生を狂わされたかもしれんけど。
平石)自分たちで考えるための場所、ですか
伊藤)そうだね。綺麗に言えばね。
人間がどうして洗脳されるか、っていうことなんよ。そのことの方がずっと問題が大きくてね。さっきの『1984年』じゃないけど僕ら、絶えず洗脳される場所にいるんですよ。
洗脳されないようにするっていうことはやっぱり自分で考えるってことだよね。
解決の仕方はそれしかないよね。どうやって自分で考えられるか、っていう。
そういうことを多分僕は思ったんやと思う。
それに対して、みんな応えたんですよ。みんな優秀だったの。自分で考える、っていうことができた。
それがまず最初にできたのは、大学祭実行委員のメンバーだし。
大学祭実行委員というのは、1年生と2年生でやってたよね。2年生が中心で1年生はそれを習う。
3年生になるとOBになるんだよね。そのOBが、〈すぺーす・宝船〉に来たの。
みんな「自分で考える」っていう思考の訓練はできてたから、本当にみんな優秀だよ。
優秀なのにただの飲み会ばっかりして申し訳ないっていう気もするけど。
〈すぺーす・宝船〉にはどんな事があったのか? /1985
「メンバーの誰かがやりたいって言えば、じゃあやろうかってなるだけだよね。」
伊藤)発足からどんなことが起こったか。
まずラジオをしようと思った。しようと思ったっていうか、ラジオだったらみんなが集まるだろうっていうかね。要するに、海賊放送で微弱な電波を使う。今でこそ市民FMとかなんとかって言うのもその頃は全部違法だったんですよ。
一定の範囲だったらOKだけど、それ以上の距離に飛ばすとダメだった。
※ミニFM、と呼ばれる無線局免許状や無線従事者なしで放送できる微弱電波を使った放送。粉川哲夫による「自由ラジオ」の提唱も後押しし、全国的にブームとなっていた。
平石)そういう事ができる学生の方がいらっしゃったんですか?
伊藤)うん。粉川さんに習ってね。粉川さんが発信機持ってきて講演したらしいから。簡単なの、本当に、1000円ぐらいで発信機があって。その中をちょっといじったら電波が飛ぶっていう。部屋が4階だったんだけど、屋上にアンテナ立てて。
平石)範囲内でチューニングしてたら拾える、という感じですか。
伊藤)そういうのを始めたんだけど。どうせ誰も聞いてないだろうと思うしね。
平石)録音したものを流してたんですか?
伊藤)いつでも生放送。生放送してたら、同じ部屋の別の方では飲んでる人たちもいるわけ。そしたらこっちの方がおもろいじゃん、ってなるわけじゃない。
得意なのはただの飲み会、って言うことになるでしょ。
だから天井から、とにかくマイク吊るして。もう放送しっぱなしっていうか、垂れ流しです(笑)。
「おーっ、○○が来た!」から始まって(笑)。「ビール持ってこいや」とかね、そんなの全部放送するわけよ。
平石)本人たちも、「ラジオ放送だ」という意識があるというより、飲みに来たらマイクがぶら下がっててそのまんま勝手に流れているって事ですよね?
伊藤)ラジオっていう意識は何もなかったよね。
でも、良かったのはラジオにしたのはね、モニタリングはちゃんとするわけですよ。放送をちゃんとテープで録って。話が面白くなったらうわーっと盛り上がるでしょ。それが全部テープで残っている。
それをヤッコっていう学生が、たちまちに文字に起こしてくれてね。
面白いところをピックアップして、それを 「すぺーす・宝船 不定期便」(同人誌)に載せて。
平石)その「すぺーす・宝船 不定期便」ですが、今日はMさんが持ってきてくださった不定期便の第1信があるんですけど。1985年4月発行です。
伊藤)うん。僕も何十年近くぶりに見るけど。
平石)この「海図」と書かれてる規約とか、私が想像していたよりは結構ちゃんとしてるなって思ったんですよね。一口2000円の維持費とか。
伊藤)そんなもん、誰も払ったことないですよ(笑)。
M)やっぱりYがキーパーソンですよね。僕と敏さんを繋ぐのもあるし、割と頭脳でもあるので。
伊藤)この中のフェリックス・ガタリ(フランスの哲学者)の翻訳をしてるのは彼だからね。
この話をしようか。海図は、僕もこんなこと書いてたんだと思って。
「すぺーす・宝船は、広島に関わりのある生活者が、より創造的で自由な活動を求める際のその拠点としての空間である」
偉いよね。これ僕が書いたんですけど。
平石)この文章の中でChef(シェフ)って出てくるのが敏さんですか?
伊藤)僕はこの中でシェフだったの。みんなにご飯食べさせんといけんから。
平石)これが面白いですね。「85年4月をもってワードプロセッサーを設置し、文章表現の自由と創造性を追求する」
伊藤)あのね、200万ぐらいかかった。
平石)たっか!車より高いのでは?
伊藤)全部僕が、ローン組んでね。それでこの文章ができてるんですよ。だから4月にワープロを手に入れてすぐ作ったのが、この文書。日付が4月14日だから。
平石)当時ワープロって珍しかったわけですか。
伊藤)日本語の画面が出てくるワープロっていうのが当時は珍しかった。
平石)最新機器を揃えてらっしゃったってことですね。
伊藤)次は「(前略)FM発信システムを設置し、自由ラジオ放送局『えふえむ・宝船』を開局して、音声表現の自由と創造性を追求する。」これはラジオでやったことね。それから、「さらに将来〈すぺーす・宝船〉にはビデオシステムを導入して映像表現についても同様の目的をめざす。」これはできんかった。ビデオより映画をやろうみたいになって。
それから。「(前略)大資本公機関・マスメディア等の宣伝・支配・強制等によらないありかたを模索し、表現活動の自律化に積極的に参画する」こんなことはしてない(笑)。
出岡)でも、言葉にしたらそういうことで。そういう感じの場所だったんだよ。
平石)「今後の〈すぺーす・宝船〉における諸活動については、これに乗船する乗組委員の合議によって相互理解を目指す。」これは、会員制なのかな、ともとれる文章だなと思ってですね。
伊藤)いや違うよ。その頃はちょうど7人おったから、”七福人”とか言ってね。何でもしゃれてるだろう。会員とかそんなことは何もなかった。
それから、「新規乗組員の可否については、既存の乗組員の全員一致によって判断する」これもなかったね。勝手に来るんじゃけ(笑)。それから次の「一口2000円の船体保険金を拠出する」最初はあったんだよね、最初はみんながお金払ってくれたりしたけど、そのうちね。
高校生なんかに金出せなんて言うわけない。この辺のお金関係のことは全部嘘だよね。
出岡)魚とか持って行きよった気はします!(笑)
平石)敏さんのお給料はほとんどここの運営に当ててらしたと。
伊藤)全部そうです。僕はとにかく昼間は日本一高い金箔の壁紙を作っとったんですよ。当時はぶらぶら社員っていうのが流行でね。僕もそんなんだったから、もう夜明けまで飲んでるわけだからね。それからちょろっと寝て。僕のベッドだけしっかり確保されてね。
平石)そこは誰も入らないようにしてるんですか。
伊藤)あそこは誰も入れない、いや別に入ってもいいけど、誰も入ってこない(笑)。
あとは、押し入れに寝てたりね。その辺に7、8人寝てるわけよ。
平石)〈すぺーす・宝船〉はどれぐらいの広さだったんですか?
伊藤)結構広かったよな?
一同)ええーっ?(異論の声)
伊藤)1DK。8畳くらいの和室と4畳半のキッチン、ちょっとしたスペースがあって。1個の布団で2人寝たりしてたね。
出岡)人の距離感もすごく近い。敏さんのベッドの下に唯一足を伸ばせるみたいなスペースがあってそこがちょっと広い(笑)。
伊藤)それから、やったのは〈驪團〉(りだん)っていうテント劇団があってね。それはKちゃんが一番熱心だったと思うけど。
K)1回広島にきてたんです。だからもう1回呼ぼうっていうことになって。
M)最初は文サ連(文化サークル連合)と大学祭実行委員の主催で呼んだんです。
伊藤)広大はね、唐十郎を呼んだりね。結構テント芝居を呼んでいたんですよ。
M)流れがあるんです。僕がちょっと政治運動に関わってて、千葉県の某所行く途中に、筑波大学に寄ったんですよ。そこでたまたまその〈驪團〉の芝居を見て。その後の打ち上げで、よかったら広大にも来てくれと、住所教えたんです。そしたら丁寧にもぜひやりたいと手紙が来まして。そこから話が進んで、サークルでちょっと主催みたいなところにねじ込む。
あと実委(大学祭実行委員)もこういう事にわりと柔軟性があるんで、加わってくれまして。
最初呼ぶときはなかなか難航したところもある。
しばらくそういうことを大学がしなかったので、交渉が難しかった。何とかそこへ実現して、次の年に〈すぺーす・宝船〉ってことでやろうよ、と。
そういう運びになったということで、大学の組織と別で呼んだ、っていう形ですよね。
伊藤)でもね、〈すぺーす・宝船〉っていう名義で主催をしたことは1回もないんですよ。
例えば〈驪團〉を呼んだ時は、うたたね座とかね。勝手に団体名を付けて。その時の、集まった人間が勝手に名前つけて、メンバーの誰かがやりたいって言えば、じゃあやろうかってなるだけだよね。テント芝居はとにかく面白かったね。
平石)宝船に来ていた人が、やりたいことをやるし、各々が手伝ったり、応援したりしていたと言うことですか。
伊藤)うん。したい人がやるっていうね。だから宝船っていうものは組織じゃないです。だからメンバーとか言われても特にいない。ただ、来てるだけだから。
それと、ラジオの文字起こしをしてたヤッコっていうのがとにかく映画好きでね。彼女が見たいって言ったら、じゃあそれやろうかっつって、映画をたくさんやった。上映権も取ったし。
平石)映画館で上映したということですか?
伊藤)それもやったし、宝船でシーツを張って、そこで試写会したら、すごい人数が来てね(笑)。人がいっぱいいる中で試写するんですよね。それからあとはサロンシネマ(当時は広島大学東千田キャンパスに近い鷹野橋にあった。2014年に現在の八丁堀に移転)。
上映したのは何だったかな。ともかくサロンシネマが上映の封切りで、広島でやってない映画だから絶対お金を取らなくちゃいけなくて。僕らは別に、タダでもいいからみんなに見てほしい。
だからその分全部お金払って、チケットはいっぱい配って。
とにかく見てくれた人が金払ってくれたら、それでいいやみたいなね。
それから、「ジョナスは2000年に25才になる」という映画もやったね。そのときは僕は出張で東京行ってて、東京のユーロスペースでフランス語で喋ってて、英語字幕版を試写してもらって。とにかく映画は、結構やったよね。
上映って別に、映画を呼んできさえすれば、あとはお客が何人くるかだけだから。
映画はそんなに労力もいらないっていうか、金だけいる、っていう。
平石)〈すぺーす・宝船〉の食事はどうされてたんですか?
出岡)鍋が多かったような気がするんですね。
M)大人数だから何か順番に作ったりみたいな。
出岡)夜に飲み会した時に、敏さんが酔いつぶれる前に、僕に「卵とかベーコンとか、朝食べられそうなものを買ってこい」って言うんです。で、お金だけもらって適当に買ってきて、置いていたら朝、それがご飯で。コーヒーがあって誰かがカリカリって豆引いて。
伊藤)もちろん僕が負担でね。それは大きいよ。
だけど、僕は楽しかったから、そんなのはいいんだよ。
とにかく僕の中では反原理だよね。要するに、洗脳されない人間の生き方。僕が洗脳しない。
例えば、「あいつは教祖になりたがってる」とか、いっぱい言われたらしいよ。「あいつはまたサロンを開いて」とかね。
サロンって言われることは別にどうでもいいし、僕は彼らを批判する気もないけど、結局彼らもある種の洗脳って言うか、ある価値観に収斂していこうっていうのが、ものの考え方として駄目なんよ。
人間はね、もっとバッとしてた方がいいんだよ(笑)。
平石)〈すぺーす・宝船〉自体は何年ぐらいあったんでしょうか。
伊藤)僕がヨーロッパへ行く前までだね。僕は家賃を払いながら、もうそこにはいなくなって。91年ぐらいが最後だね。
〈すぺーす・宝船〉に新しい風がやってきた /1986頃-
「とにかく成し遂げないっていうのが一番大事だよね。」
伊藤)それから、タロウと高校生っていうのを、ぜひ喋ってもらいたいな。
タロウは当時、青雲寮(広大生の寮)から追い出されて、行くところがないから宝船に来た。
ある日、僕が帰ったら、タロウが寝てるから「お前、なんなんや」って(笑)。
そしたらMが、いろいろ言い訳するわけ。「こいつ、青雲寮には居れなくなりました」って。
その後、タロウは高校生の生西っていう男を連れてきたよね。
そこから、それまでの大学祭実委メンバー主体のっていうから変わったよね。フェーズが変わったっていうのかな。
平石)タロウさんが高校生に、どういう場所として〈すぺーす・宝船〉を薦めたのかなっていうのをお伺いしたいです。
タロウ)仲良くなるじゃないですか。話をしたいんで。自分が住んでるところではあったからね。
平石)お家に呼ぶ感覚ですか?
タロウ)自分の家みたいな感覚がなかったんですよ。〈すぺーす・宝船〉はただのスペース。
僕、とにかく寝る場所がないから寝る場所を確保するために、っていうのもあったんで。
そこが自分にとって一番いい場所だとかそういうのもなくて、僕はギリギリの中で助けを求めて受け入れてもらったんです。
そこへ寝泊まりしているうちに高校生と仲良くなって、おいでよ、ってなりますよね。
友達を自分ちに呼ぶ。
伊藤)今、自分の家じゃないって言ったじゃない(笑)!そこがまず矛盾だよね。
タロウ)生西くんは、当時広島でバンドやりたいなっていうのがあって、たまたま『フールズメイト』(音楽雑誌。1977年-2012年)の友達募集の欄で知り合った。そしたら、音楽の趣味がほとんど一緒。
彼がバンドをいくつか呼んで、ライブイベントをやることになった。僕も誘われたけど「僕は君とバンドでやりたいと思って連絡したんだけど」みたいな感じで。
今は八丁堀のドン・キホーテになっているところに、当時はウィズワンダーランドっていうビルがあって、その中にスタジオHEAVENがあった。そこでライブしようってなってお客さんを呼んだ。
出岡)本当は音楽練習するスタジオで、広いから勝手にお客さん入れたの。スタジオ料金払って、お客さん入れるみたいな(笑)。でも、すぐ中止になったんですよ(笑)。ウィズからストップがあって。
タロウ)当時、まだ彼(出岡)とは知り合いじゃなかった。生西くんと、それから参河くん(高校生から〈すぺーす・宝船〉に通うようになる。現ミュージシャン/インタビュー会場のミカカカフェ店主)もバンドやってて。
出岡)2人が高校3年生だったと思いますね、僕が高1だったので、1986年。
タロウ)終わって打ち上げで、ちょっと話したいね、って言ったら自然な流れですけど(宝船に行くのが)。
伊藤)ブーシーズ(参河がギターボーカル、出岡がベースで在籍していた3ピースパンクバンド)っていうバンドは画期的だったよね。
平石)宝船の皆さんもブーシーズを見に行ってたんですね。
出岡)強烈なサポーターですよね、本当に。自分が何かやったことを好きな人が1人でも居るって、強烈な力になるじゃないですか。普通のバンドとはちょっとそこら辺のバックボーンも出来上がった時点で違ったような気もしますよね。
やっぱり生西くんとか参河さんとかは、ちょっと何か特殊な人が集まっちゃった感じがしますよね。だから、タロウさんが嗅覚を持ってるんだろうと思います。
伊藤 )タロウが今の彼らをよく見つけてくれたっていうか、それぐらいしか宝船の成果がないの。
タロウのおかげで、宝船の後半はできたように僕も思うし。
とにかく、洗脳しない。
それだけだよね。なんか僕ら何か目的を持って何かをしてたんじゃないか、って思うかもしれないけど、申し訳ないけど何もない。
目的なんてね、それは自分で見つけるべきことだよね。
集団の中で見つけることじゃないよね。それぞれが自分の頭で考えて自分でやることだよね。
特に今の若者に、言いたいよね。今の若者はなんか何もかも怖がって。
ちゃんとしようとか思うかもしれないけど、でもそんなものはどうでもいいんだよ。
でも、俺がどうでもいいというと、最近すごく批判を受けるんよ。
「あんた、途中まで議論を進めて、最後どうでもいいって言うでしょ」って。(笑)
タロウ)本当にね、あらゆるものは、眺めてる人が圧倒的に多いわけ。
渦中に居る人ってのは本当に少数派。ただ眺めて、ツイッターとかインスタとか載せるだけ。本当にどうでもいい。だから「どうでもいい」っていうのは本当に正しい。
僕はたまたま眺めるだけじゃなくて詰め込んだ。お互いに影響はあったんですよ。
MくんとかKちゃんはいろいろ進路のこととかもあって、以前のように宝船に関わることはあんまりできなくなった出来た時期でもあったから。高校生の方がどんどん来るじゃん。
出岡)いやKちゃんは絶対おったよ。
K)おったよ(笑)。
出岡)Mさんは、週に1回帰ってくるお父さんみたいな(笑)。Mさんが帰ってきたらちょっとピリッってするっていう(笑)。
タロウ)映画とか芝居とかをバリバリやってたっていう時期よりはちょっと落ち着いて。全然違う新しいことを始める高校生に、どちらかと言えば少し飲み込まれながらね。
M)敏さんはね。僕とYが卒業して就職してちょっと金が入るようになるぐらいまで頑張ろう、みたいな話をしたことがあった。だけど、Yは、結婚して宝船を卒業してしまったんですよ。
僕は僕でフラフラして大学に長々居て。バイトばっかりしてるような感じになっちゃって。
敏さんもちょっと困った感じになってた(笑)。
僕が必ず乗り込んで助けてくれるんじゃないかっていうのはあったと思う。僕もそのつもりではあったけど、それがちょっと、ずれ込んで。
いざ、資金的にも頑張ろうとしたときが、あの辺がもぬけの殻になってて。つまり初期のメンバーは卒業して、敏さんもバブルで忙しくて、「漂流記」(雑記帳としてすぺーす・宝船に設置されているノート)だけは書きに来るみたいな状態になっていた。
タロウさんが高校生たちを呼び始めてからまたちょっと次元が変わってきた。
とにかく、この人(出岡)がなんかポジティブなんですよ(笑)。
僕らはちょっと否定的な、何でも斜に構えて、いろんなことを否定していくような感じ。
敏さんなんか会う人会う人全部否定している。どんどん喧嘩売ってるわけですよ。
だから〈驪團〉の人なんかとも喧嘩になったりして(笑)。
伊藤)〈驪團〉とは喧嘩になったね。要するに僕は僕の気持ちをわかってくれる人といたいだけなんだよね。僕の気持ちをわからん人とは、どうでもいいやっていうね、それは一生変わらんよね。
M)気持ちはね、わかるんです。ただ、言い方とかね。
一同)(爆笑)
平石)フリースペース運動が80年代半ばに全国的に広がって、たまり場とか空き地やフリースペースが増えていったのと〈すぺーす・宝船〉と関連はありますか?
相対的にそうだしても、そういった運動のことが書いてあるのは、関東近郊だけの話が多いので、宝船の動きと違うんだろうな、というのもあって。似たようなことは、いろんな都市にあったとしても、シーンや人が全然違うから起こっていたことがあるんじゃないかなと思いまして。
伊藤)神戸にもあったよね。
世田谷のラジオ・ホームランは粉川さんの和光大学の学生が作った場所。
平石)場所同士での交流はあったんでしょうか?
伊藤)緩くは繋がってた。ホームランはユカを預けたんじゃけん。
ユカっていう高校2年生の家出娘がおってね。バンドのボーカルやってたんだよね。
でもある時「うち家出したけえ」って言うから、おいおい、と思って。
「今日からここ(〈すぺーす・宝船〉)に泊まる」というわけ。
その日のうちにお母さんに電話したんですよ。「家出してきたって言ってますけど、どうしますか」って。そしたらお母さんが「よろしくお願いします。」っていうから、預かるしかない(笑)。
俺も困ってね。しばらくタロウと俺とユカ。毎日一緒に寝てる。それ以外も寝てる、みたいな。
それでしばらく広島で、部屋も別に借りてやって。
彼女も広島でバイトなんかしてたけど、「東京行きたい」って言うから、「じゃあラジオ・ホームランに話つけるから」って話して、そこに預けて。
出岡)うん、2年生から3年生に上がるときに進級しないまま上京。
伊藤)だからラジオ・ホームランの人には本当によくしてもらったよ。
平石)家出はあるとしても、お部屋まで借りてあげたりとか東京のサポートまでっていうのはなかなか個人でもできないものかな、とは思います。
伊藤)いやあ、何かできたんだよね。
でも、何か宝船っていう組織があるとするでしょ。そうすると何か目的があったんじゃないかとか、普通思うよね。でも本当にないんだよ。
だから、だらしないっちゃだらしない集まりだけど、でもね、そのだらしなさが要る、っていうかな。
「必要」と言ったら、それも目的だからそうは言いたくないけど、とにかく何かが生まれるっていうことはどうでもいい。「どうでもいい」っていうけど、結局そういうことなんじゃないかね。
多分、あなたはいろいろ、研究したり追求してること中で、とにかく例えばこんな集まりがあった。
それにはこんな目的があったとか聞きたいのかもしれないけどね。違うんよ、全然何もなかった。
何もなかったっていうことが、この35年か40年ぐらいたって大事なんやないかって思います。
タロウ)入れ物だけあったってことですよね。
平石)今それがないな、っていうことを思ったので興味を持ったのもありますね。余白というか、何でもない場所みたいな、空き地がないように思っています。
例えば、飲みに行ったら何の職業か誰かわからない色んな年齢の人と話す事があったとしても、他者と議論する場所があることは、すごく豊かなことだったんじゃないかなという。テント芝居の空き地利用にしても、今は監視されすぎてる感じというか、規制やコンプライアンスみたいなものも当時とは違うように思っています。
伊藤)やってた人たちは気楽(笑)。僕が何やってもお気楽だったから。
タロウ)自分が傷ついてでも欲しい場所とかを手に入れる、ってことはなかなか出来なくなってるんじゃないかな。あまりにも管理がされすぎてて。
既に洗脳されてるっていうふうに当てはめられるかもしれないけれど。
法律はそうだとしても、もしかしたら変えられるんじゃないか?とかいうとこまで行かない。
既成の概念で自分たちができてるってことを、どっかで暗黙の了解をして新しいものを求めるっていうのは、例えば政治家になって、とか。
もっと大きな力を持って変えるんじゃないかなと思ってしまってね。
でも本当は違う。もっと個人的なところから運動みたいなものは起こるだろうしね。
だからそういうものを早く諦めてしまうような生き方を、今みんな選択し始めたんじゃないかなって気がするんですよ。
伊藤)みんなタロウを見習うべきだよね。そう思うよ。タロウがどんなに偉い人間かね。僕はよくわかってる。
タロウ)褒め殺しみたいになってる(笑)
伊藤)実際タロウみたいな人間が今いたら、どんどん若い子のいろんなもの集めてたと思う。
でもやっぱり場がない。そういう意味では、宝船がないよね。
宝船があったから、タロウはそれを呼び込めたんだけど。
タロウ)僕は10代のほとんど養護施設で育ってるんですよ。
それでそこから抜け出したくて広島に来たというのがあったんで、僕自身の人生の目標はそこで終わってるっていう。
何か圧迫された生活を経験してから、何にもない状態ってのはすごい。
やっぱり高校生らの子が来たとしてもなんの負荷もかからない状態を見てるのがすごく好きなんですよ。
彼らが好きなことを言い、好きなことをして、何かちょっと手伝ってくれって言ったら、何の条件もなく手伝う、みたいな状態が僕は多分好きだったと思うんです。
そういう個人的事情もあって、彼らと付き合いやすかったです。
でないと「年下の奴は何を偉そうなことを考えているんだ、こっちも自分の生活は大変だ」みたいな感じのやり取りをしてたかもしれないけど、そういうことが一切なかったですね。本当に同じ目線で。
場が何かを成し遂げるってことはほぼないと思う。つまりその過程を経験した者たちがその先どういう生き方をするかってことが重要であって、何かを成し遂げるってことはやりたい人がやればいいし。
伊藤)とにかく成し遂げないっていうのが一番大事だよね。
出岡)箱だったんですね。場所だったんですよ。
伊藤)さっきの洗脳じゃないけど、やっぱり何にもしない、何にも役に立たない。
あるいは、とにかく目的がない。そのことがすごく僕は大事だったんだと思うよね。
平石)でもちゃんとその場の誰かのやりたいことは尊重している。
そういう部分もなかなか簡単にできることではないように思うのですが。
伊藤)ちょうどその頃自分の仕事がそんな仕事だったからね。
あの時代でなきゃ味わえない好き勝手。とにかくいっつも、酔っ払って会社いくわけよね。
そういうことができたのは、もう今は絶対誰もできないよ。
あの時代っていうか、あの瞬間っていうかね。
出岡)バイトするのも、宝船でしたね。ちょっと絵を描いてみろ、と。
星座の絵を描いた。それが何に使われるかとか言われてないんだけど描いたりしました。参河さんと2人で何十個か描いた。
伊藤)夜中にいっぱい仕事したなあ。本当にあのとき自由だったし。だって経済的な基盤がなかったら、絶対やれてないからね。
うん、あれはね。本当にあのときしかできんかったことだと思う。
(※2023年、12月頭に伊藤敏さんは鬼籍に入られました。インタビューの後も度々顔を合わせる機会があり、
まだまだこの続きを伺いたかった気持ちでいっぱいです。心よりお悔やみ申し上げます。)
文字起こし|平石もも
写真|松波静香
資料提供|M、タロウ、参河護
会場協力|ミカカカフェ
特別協力|岡本芳枝
令和4年度 文化庁 大学における文化芸術推進事業
事業名「街に介入する芸術、その公共性の議論を促すメディエーター養成プラットフォーム」
主催|広島市立大学 HACH (Hiroshima Arts&City Hive/広島芸術都市ハイヴ)
運営|ひろしまアートシーン運営事務局(gallery G内)