【レビュー】遠山雅「よんぎ壺」
2024.12.15(日)
2024年最後のレビューは、サッカースタジアムやヒロパのオープンで脚光を浴びる基町地区、そのランドマークといってよいだろう基町高層アパートの商店街に突如現れるオルタナティブスペース・コアが、今回の舞台。サンフレッチェの試合がある週末などは、スタジアムとその周辺はごった返しているのだが、意外にもアパート内は穏やかなものである。ファンの大歓声もかなり消音されており、人の暮らす場所への配慮が伺える。
そんな場所の一角で開催されていたのが遠山雅「よんぎ壺」である。よんぎ?とは耳慣れない言葉だが、妙に気になるその魅惑的な響き。壺という古来より人類が用いてきた道具と相まって、まるで呪具のようなイメージさえ湧くタイトルである。迷宮のようなアパートの雰囲気も昭和レトロ感満載で、不思議な感覚に包まれたまま会場へ。
「『よんぎ』という言葉は佐賀県の特有の地域で使われている方言で、ぐにゃりとしている、ねじれているといった意味と似ていますが、実際に使っている人たちはそれとはまた違うその地域独特の共通感覚に基づき使われている方言です。」(会場あいさつより)
陶板に刷られた作家のステイトメントからいきなり「よんぎ」っているように感じた。わかるようでわからない。もちろんは筆者の勝手な印象であるが、このねじれ感覚はある程度想像していた部分でもあったので、ちょっと嬉しい。そして会場にはぎっしりと壺が並べてある。いくつか領域ごとに意味合いが異なりそうであるが、空間全体として一つのインスタレーションであるとのこと。
一番手前に並べられた暗色の壺から見てみる。右の列は工業製品のように精緻に美しく仕上がった壺。対して左の列はぐにゃりと不安定な壺。横のモノ同士で比べてみると、それぞれ同じ形を目指したようにも見える。実際、右の列は作家の実父で陶芸家の作品、左の列はそれらを真似して作った作家の手によるモノであった。完成度でいうと述べるまでもないが、よんぎ度でいうとそのジャッジは反転するだろう。価値観の転倒という意味ではとてもわかりやすい導入に思えた。
気になるものが左右に展示してあるが、一旦流してボリュームのある奥の作品へ。先の壺から一転、実に様々な壺が集められている。形態、色彩、質感、サイズ感に完成度。これらは父親の手がけた「よんぎ壺」を中心にコレクションしたものだそうだ。先の壺を正統とするならば、こちらは前衛的、遊戯的、個性的といった少しはみだしたモノたちに見える。それゆえ、一点一点が唯一の存在感を示し、愛らしさを漂わせている。
右の写真中央の壺は、ろくろで一旦整形したものを、そのままろくろ上でぐにゃりとしたものらしく、その高等技術は父親が編み出した方法であるそう。意図的な「よんぎ壺」の依頼と応答。娘と父の共作、なんと微笑ましい。というかその間柄でないと断られそうな案件である。芸術表現にはいわゆる「ヘタウマ」という見せ方があるのは周知であると思うが、でっぱっている箇所以外は非常に美麗で、全体としては陶芸家の意地なのか若干「ウマ」寄りに傾いているように思われ、妙に可笑しかった。
その他の展示には「よんぎ」に関する文献や古地図などの資料。作家の仮説によると、出身地の佐賀県の陶芸や壺に関する歴史、日本と朝鮮の陶芸における関係などが「よんぎ」の背景にあるのではないかという。例えば言語に関して、陶芸の世界で慣用される「トンバイ、ハマ、トチン」などの道具の名前は朝鮮由来の言葉だそう。また「ヨンギ」は容器、「オンギ」は壺を指す言葉であるそうだ。とすると、それらの言葉が時間をかけて発音的に「よんぎ」った結果、「よんぎ」という方言に定着したのかも、という連想も浮かぶ。日本人は歴史的にも外来語をうまく日本語化してきた実績があるし、作家の説を補強してくれるかもしれない。
他にも「よんぎ」を動的に伝えるストップ・モーション、会期中に現場で増えていく壺作りのパフォーマンス、活動をまとめたZINEや以前の試みから派生した生き物のようなミニチュア作品、もはや作品か商品か判別のつかない陶芸の数々と、「よんぎ」ワールド全開であった。多様なメディアを駆使して「よんぎ」の概念を伝える活動は、実践と理論が渾然一体となっており大変興味深かった。単一の技法を深めるのも尊いが、複数の技法をもって概念を伝える仕事は、あたかも多面的なものを多面的なままに表現しようとしている点で新鮮に映った。ユニークかつ、自身のアイデンティティに関わる息の長い創作研究になるのだろう。次の展開が楽しみだ。
(広島在住のアート愛好家・太田川蟹)
遠山雅「よんぎ壺」
会期:2024.12.1〜2024.12.15
会場:オルタナティブスペース・コア
鑑賞日:2024.12.8