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軸線の向こう側より名もなき市民らの姿を想像する【展覧会「国際平和文化都市の基(はじまり)」@ Unité】

こんにちは、鶴見町のアートビル「三沢コーポ」2階にある、週末本屋bookscape(ブックスケープ)店長のmjです。美術巡りと本のページめくりが趣味です。今日は一冊の本のようなドラマが詰め込まれていた写真展をふりかえってご紹介します。

「国際平和文化都市の基(はじまり)」展。基町プロジェクト活動拠点Unité(ユニテ)で、2023年4月21日(金)から5月21日(日)まで開催されました。

1952年に開館した児童図書館(丹下健三設計)をはじめ、当時の様子が見渡せるパノラマなど、広島の戦後復興を撮り続けた写真家・明田弘司の作品を、広島市所蔵資料と共に紹介した本展。
基町地区の在りし日、「国際平和文化都市ひろしま」の基(はじまり)の姿を振り返りながら、今も変わりゆくまちの「これから」を考えさせる、示唆に富んだ内容でした。

「国際平和文化都市の基(はじまり)」展のはじまり

展覧会の舞台となる「基町」地区には、広島城を囲むように、官公庁エリア、商業エリア、メタボリズムとして有名な基町高層アパートを擁する住宅地区、そして建設中のサッカースタジアムやプール・美術館といったスポーツ文化施設を擁する中央公園が配置されています。

2023年3月末、同地区の入口とも言える旧広島市民球場跡地には新たに「ひろしまゲートパーク」が誕生しました。平和記念公園と原爆ドームを貫く丹下健三の「都市軸」を可視化した並木道「ピースプロムナード」を歩きながら、わたしは「平和記念都市建設法」[1]を思い浮かべました。

“この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。”(広島平和記念都市建設法第1条

広島市は現在もなお、1949年制定のこの特別法に基づいて、まちづくりをつづけています。

2023年にオープンしたひろしまゲートパーク。西端に原爆ドームから伸びる「ピースプロムナード」がある。


パーク内のハノーバー庭園のあたりに、終戦間もない1948年、焼け野原となった広島のまちで最初の文化施設として「児童文化会館」が誕生しました。誕生の背景には、平和記念都市建設法の策定を待たずして、まさに“恒久の平和を誠実に実現しようとする”市民たちの動きがあったのです。

「国際平和文化都市の基(はじまり)」展は、ここからスタートします。

明田フォトプロジェクト事務局の梅森さんが来場者へ展示解説を行っている様子。
朝ドラになりそうなストーリーには思わず聞き入ってしまうのだ。


市民の動きから立ち上がった「こどもたちの未来のため」の文化復興

広島城築城以来の「広島開基の地」として「基町」と名付けられた地区一帯は、明治以降軍事色を強めますが、1945年原爆によりほぼ壊滅。軍用地は終戦後に国有地となり、翌年から被災者・引き揚げ者のための応急住宅地[2]となりました。

市内に住む教職員ら60人ほどが、基町を拠点に「広島児童文化振興会」を立ち上げ、終戦翌年に発行した児童雑誌「ぎんのすず」[3]は、一時は全国的な人気を誇りました。

戦中には国威掲揚を後押しする教育を強いられ、多くの教え子を戦地に送り出してきた教師たちだからこそ、多くの反省や後悔もあったことが想像されます。未来ある青少年たちを、もう二度と、一人たりとも戦地へなど送りたくはないという切なる望みは、児童雑誌にかたちをかえ、物資が乏しく苦しい生活のさなかで、子どもらの心に文化の種を撒いたのではないでしょうか。

展覧会準備中に写真を見ていたら偶然発見したという「ぎんのすず」の看板。
私が朝ドラ脚本家ならこのシーンからト書きを始めるだろう。


こうした活動の広がりの中で企画された「児童文化センター」構想の中心施設として、先に紹介した「児童文化会館」も建設されました。戦後、文化施設がいち早く市民たちの動きによって建てられたことに驚かされます。構想案には動物公園や科学館・博物館などの施設が描かれました。

児童文化会館は、読んで字のごとく「子どもたちが文化芸術活動を行うことができるように」との思いで建てられた施設でした。子どもだけでなく大人にも、映画上映や演劇などの娯楽を楽しむ場所として親しまれました。

会場で「子どもの頃に児童文化会館で観た演劇に衝撃を受け、舞台人を目指した」という方のお話を実際に伺い、文化の種が確実に芽生え、それぞれに花開いていたことが印象的でした。


地元設計事務所から丹下健三に受け継がれ
海を飛び越えて繋がった文化復興のこころざし

平和記念公園および平和記念資料館の設計者である丹下健三、世界平和記念堂の村野藤吾など、広島復興期の建築に関する研究は枚挙にいとまがありません。そんななか、「暁(あかつき)設計事務所」もまた、広島復興事業における重要な縁の下の力持ちでした。彼らこそが児童文化会館の設計者。広島児童文化振興会の思いをかたちにした人々でした。

「丹下が平和記念公園設計コンペ1等となり、暁設計事務所を広島滞在時の拠点としていた時期から、彼の構想に『子どものための文化復興』という視点が加わっていった」(展覧会キャプションより)

展覧会ではこの推論についても、資料とともに示されています。

会場に展示されている丹下の「PEACE PARK PROJECT」[4]には、現在のまちに実現している文化スポーツ施設の多くが予言のように描き込まれています。この計画で、実際に丹下自らが設計し設置されたのは、現在から見ても円形型のデザインが未来的な「児童図書館」でした。子どものための図書館は全国初。費用は原爆の惨禍を伝え聞いた在米広島県人会の寄付金などから支援を受けました。[5]
GHQ教育顧問ハワード・M・ベル氏が視察で来広した際、市内の惨状を目にして心を痛め、「広島の子どもたちのために」と寄贈した児童書たちもまた、児童図書館開設を実現させる大きな支援でした[6]


展覧会をとおして見えてくる、「見えない平和の軸線」

ピースプロムナードがあらためて可視化した軸線は、平和記念資料館、慰霊碑、原爆ドームを結び、広島開基の地「基町」へとつづきます。この展示を見たことで、それがどうやら単なる地上のラインというだけではないことを感じることができました。

都市軸とは都市と自然の偶然的な配置から人が想像力を働かせて生み出した産物に過ぎません。しかし、ヒロシマにおける都市軸は、誰か偉い人の頭の中から出てきたものではなく、市民たちが文化復興に奔走した姿そのものが基(はじまり)であったと言うと大袈裟でしょうか。

ピースプロムナードより北望。変わりゆくまちの先へつづく。

[1] 1949年5月に衆参両院で満場一致で可決、7月7日の住民投票では投票率65%、賛成票90%を占めた、戦後全国初の特別法。同年8月6日に公布され、壊滅的な被害を受け著しい財政難の中にあった広島で、平和記念公園建設やインフラの復旧が進んだ。
[2] 1946年より県・市・住宅営団によって木造の越冬住宅を建設。また、市内一帯の川沿いには土地を持たない人々が住み始めたが、他地区からの立ち退きにあった人々が民間住宅を建て住み始めた。基町地区の土手は相生通りと呼ばれる住宅群になった。
[3] 1946年8月6日に第一号を発刊。出版者や発行所を変えながらも一時は全国的に広がり、鈴木三重吉ら児童文学の父をはじめ、サトウハチローや長谷川町子など人気作家らが執筆した。現在、広島市中央図書館(中区基町)にて1946年〜1953年に広島で発行されたコレクションが保管されている。
[4] 1950年作成、広島市公文書館所蔵。当時実現したのは丹下設計の児童図書館だけだったが、現在の基町中央公園の文化施設設置に未だ大きな影響を与えている。
[5] 資金の大半は米南加広島県人会によって集められた。戦災復興として募った支援金が思うように届かないケースもあったため、県人会は当時の広島市長・濱井信三に意見を求め、400万円を児童図書館建設に寄付することを決めた。
[6] ハワード・M・ベル氏を通じて広島市に寄せられた児童向け洋書のうち約1000冊は「ベル・コレクション」として現在もこども図書館に保管されている。

「国際平和文化都市の基(はじまり)」開催概要
展示期間:2023年4月21日(金)~5月21日(日)
開場時間:木・金・土・日 12時〜17時(月〜水は休場、最終日は15時まで)
会場:基町プロジェクト活動拠点 Unitē(ユニテ)(広島市中区基町16-17-108 中央公園歯科前)
入場無料
主催:明田フォトプロジェクト
特別協力:基町プロジェクト(広島市中区役所・広島市立大学)

写真家 明田弘司(あけだ こうし・1922~2015)
呉市生まれ。復員後、広島市中区東千田町に写真工房を構え、仕事の傍ら60年以上にわたり、復興していく街や人々を撮り続けた。戦後復興期の広島を中心に、尾道の路地、宮島の管弦祭など、中国地方各地の暮らしや祭りを、いきいきと写した。

明田フォトプロジェクト
写真家・明田弘司さんが遺した5万点にのぼる写真資料を、整理・活用する活動を行う。テレビや雑誌、展覧会への貸し出しや、写真が無断で利用されないよう著作権の保護にも取り組んでいる。新たな写真集の制作も進行中。https://www.facebook.com/akeda.photo/?locale=ja_JP

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