【インタビュー・ひろしまブンカDIG】第1回 : 大槻オサムさん
2023.2.24(金)
【ひろしまブンカDIG】
広島市内にはかつてどんなシーンがあったのか。可視化されにくかった時代の、文化シーンの場を作り、支え、生み出してきた人たちへのインタビューシリーズ。広島にもこんなシーンがあった、というのを再発見していきます。
第1回:大槻オサム(おおつきおさむ)さん。
1969年米子市生まれ。1988年より広島在住。役者、身体表現パフォーマー。
広島大学時代にテント芝居を見て刺激を受けた同世代の学生たちで芝居を始める。その後、葉桜由良之助と1996年芝居集団〈フン賊〉旗揚げ。テント芝居に影響を受けつつ、主にライヴハウスや野外テントで自作脚本の上演を続ける。〈フン賊〉解散後、2004年北九州のバイオリニスト・谷本仰と出会い、翌年小倉にて谷本と表現で対話するDuoシリーズ『Dialogues』で共演、作品『死者の書(てがみ)』を上演。その後も谷本が主宰する『呆けすとら』ライヴなどで共演を続け、2010年に二人で作り上げた一人芝居『ホシハ チカニ オドル』を初演。2020年まで毎年各地で公演を重ね公演回数は50回を超える。2005年より身体表現ユニット〈単独旅行舎〉主宰(現在休眠中)。2006年『アリノネ』名義で『新しい天使』(脚本)池内文平)を広島・北九州で上演。2008年ペーター・ゲスナー演出『紫・まれびとエビス~紫川物語~』に客演(北九州)。2020年より〈アビエルト芝居小組〉の公演(作・演出)桜井大造)に出演。2006年フランスの映像作家Baptiste Bessetteが広島で制作した『Fleurs Noires(黒い花)』に出演。ほかに、ストリッパー若林美保、谷本仰とのユニット〈two〉、牧瀬茜(踊り子)、梶山シュウ(ベーシスト)とのユニット〈乱葛〉(みだれかずら)、牧瀬茜・羽鳥智裕(華道家)との〈ちぎれた女〉、カフェ・テアトロ アビエルトでの即興セッションの会〈インプロBAR〉から生まれたユニット〈上八木IBM〉などで即興パフォーマンスを繰り広げる。カフェ・テアトロ アビエルトのカフェ・照明担当(カフェは現在休業中)。
インタビュアー:平石もも(92project/ひろしまアートシーン)
大槻さんは学生時代にテント芝居に大きな影響を受け、自身も脚本を書き、舞台に立ちながらも、身体パフォーマーとしてさまざまなジャンルの人とコラボレーションを続けています。また、県外のゲストの受け入れも行うなど、広島の文化シーンの当事者としても多くの表現者たちを繋ぐ場をつくってきました。
追い切れないほどの幅広い活動から、大槻さんが思う表現の現場を改めて振り返っていただきました。
※記事内では劇団名、ユニット名を〈〉、作品名を『』としています。
目次
・1988-1995 学生時代とテント芝居
・1996-2004 〈フン賊〉の旗揚げから活動休止まで
・2005-2019 〈単独旅行舎〉から、さまざまなコラボレーション
・2020-2022 コロナ禍とこれからと
1988-1995 学生時代とテント芝居
「なんじゃこりゃ、でしたよ。白塗りのあやしげな役者が出てきて、火は使うし、水は使うし、そんな事言っちゃっていいの?みたいなセリフがバンバン出てくるし」
平石)大槻さんは米子から大学に行くために広島に出てきた訳ですが、米子時代は演劇はされていなかったんでしょうか?
大槻)していないですね。これは余談になりますけど、高校2年の時に文化祭で何かするかという話になったんだけど、その頃は全然演劇に興味がなかった。
「面倒くさいから茶店かなんかでもしとけばいいのに」と思ってたぐらい。それが、なぜか演劇をクラスでやることになっちゃって。「めんどくせえなあ、そもそも何やるの?」と思ったら『ウエストサイドストーリー』をやることになって。だれが台本書くの?ってなった時に台本を書けるのが俺しかいなかったの。それで「いいよ、書くよ」って話になって。
1日で原作読んで、1日で映画のビデオ見て、3日目には台本書きあげる、みたいな今考えたらよくこんなことできたな、って思うけど。
素人でも出来るようにダンスシーンはカットして、1時間くらいで話が通じるように脚色して。
それがめちゃめちゃ評判が良かったんですよ。お客さんも泣いて。そこで味しめちゃったのね。
次の年、「またやろうよ」って今度は俺が言い出したんだけど、3年生だから受験生じゃないですか。クラスではできそうになかったんで、「じゃあやりたい人だけ集めて有志でやろう」って、台本もオリジナルで書いて。で、今度は大失敗(笑)
一同)(笑)
大槻)それでかっこわるくて本当に嫌になって、二度と芝居なんかするもんか、と思って大学に行った訳です。
平石)広島大学(以下、広大)の文学部でしたよね。
大槻)文学部です。サークルは文芸部。それまで高校では剣道をやっていて、剣道少年だったんだけど。剣道はやめようと思って文芸部に入って、小説や詩を書いていました。
隣の部室が映研(映画研究会)だったんですよね。
当時の広大のサークル棟は木造でボロボロで、仕切りがしてあるだけ。
映研の人が〈広島リアルジャズ集団〉というのをやってたんですね。〈広島リアルジャズ集団〉は元々、俺らよりも前の世代の鈴木恒一郎さんという人が始めて。その人たちが山下洋輔を呼んだりとか、本当にすごいミュージシャンをいっぱい呼んでいたんですけど、その後、映研の権田将晃くんという人が代表になって活動を復活させた。
そこに顔出して手伝いとかしてたんだけど、そのうち映研の連中が大学祭で芝居をやるって言い出した。僕も大学に入ってから、先輩に誘われてテント芝居見に行って「すげえ」ってなったクチですけど、この辺の界隈の人たちはテント芝居に衝撃を受けて、触発されたわけ。そこに参加したのが最初ですね。
最初は「芝居なんかもうやらないぞ!」と思ってたから、ちょっと端役というかエキストラ的な感じで出たんですよね。でも何ヶ月か一緒に作っているうちに面白くなっちゃって。
平石)映研が映画じゃなくて芝居を作っていたんですか?
大槻)そう。映研が中心。演劇部もあったけど、これは演劇部じゃないんですよ。
平石)ちなみに当時に見たテント芝居というのは?
大槻)俺が最初に見た劇団は〈夢一族〉かな。
当時、広大生が受け入れをやっていたのかな。〈夢一族〉になる前は〈曲馬舘〉という劇団があって、そこの翠羅臼(すい・らうす)さんという人が〈夢一族〉をやってたんですね。同じ〈曲馬舘〉にいた桜井大造さんも、〈風の旅団〉というテント集団をやっていました。場所は広島城の城址公園。サークルの先輩に誘われて行った。
平石)テント芝居は普通のお芝居と違って衝撃だったと。
大槻)もちろん衝撃だった。なんじゃこりゃ、でしたよ。白塗りのあやしげな役者が出てきて、火は使うし、水は使うし、そんな事言っちゃっていいの?みたいなセリフがバンバン出てくるし。ストーリーは難しくてわけがわからない。俺の出身は鳥取の米子で、家族、親戚は文化的なものに何も興味ない小市民なんですよ。田舎の街ですから文化的な施設やイベントもあんまり無いし。
それで広島に来るまでは、そういうものに触れる機会もあまりなく、周りにもそういう関心を持っている人がいない。俺は一族のなかで突然変異みたいな存在(笑)。
大学に行って初めてそういうものに触れたから、その衝撃たるや、ですよね。
高校までアングラ文化なんて触れる事なくて、せいぜい寺山修司とかは本で読んで知ってるくらい。
リアルでそういうものに触れたのは大学入ってからで、やっぱりカルチャーショックでしたね。
平石)映研で作ったお芝居というのも白塗りというか前衛的なものだったんでしょうか?
大槻)白塗りしてるのもいたかもしれない。まあ、影響は受けてたけど流石にテント立てる力はないんで大学会館でやったんだけど。その時はノリでわーっとたくさんの人が関わってやったんだけど、一回やってみて、「芝居面白いじゃん」って、もうちょっと本格的にやろうってなったのが、10人くらいいたのかな。それで〈アルルカン〉という劇団を作って、何度か公演をした。
さっき〈広島リアルジャズ集団〉で出てきた権田くんが座長で、台本書いてて、俺は役者で出てた。
平石)それまではシナリオを書く方から、出演側になって俳優として舞台に立つことには抵抗はなかったんでしょうか?
大槻)なかった。目立ちたがりではないんだけど、演技することは好きだった。
平石)学生の頃は政治的な運動などには関わっていましたか。
大槻)80年代後半で学生運動も下火だったしね。左翼系のサークルもあって勧誘されたりもしたけど、何しろ田舎ものなんで、そういうのはちょっと怖かった。過激派のイメージが強かったから。
だからテント芝居が持ってる運動性みたいなものが、当時の自分にはついて行けない部分があった。思想としてはわかるんだけど世代的に実感としてリンクしていけないくて、その頃は少し敬遠してた。
でも、歳をとって経験を積んでくると、昔ほど運動は盛んではないかもしれないけど、社会の構造的な歪みはいまだにたくさんあって、どうにかしなきゃいけない事はいっぱいある、と言うのが少しずつ実感としてもわかってきて。
若い頃は選挙も行かなかったし、政治のこともよくわかんないな、と思ってたけど、切実な問題がたくさんある、っていうのは年取るごとにやっぱりわかってくる。
無視して自分の仕事だけやってればいいっていう話にはならないですしね。
ある程度やっぱりそれは引き受けてやらないと。でも、そういうことに関心を深めていけたのは、芝居に関わってきたからでもあるのは間違いない。
ただのエンターテイメントをやりたかったわけじゃないし。
軽いエンターテイメントだったとしても、それでも傷つける人がいるかもしれないし、誰にどんな影響を与えるかわからない。それは表現活動をする以上、引き受けなきゃいけない。
万人を幸せにできる表現なんてないですからね。誰かを傷つける可能性は常にある。
でもそれを恐れたら何もできないし、でも無視もできない。起こりうるっていう前提として、どこまで自分がそれを引き受ける覚悟があるか、みたいなところでせめぎ合いですよね。
平石)当時はテント芝居劇団を中山幸雄さん(現カフェ・テアトロ アビエルトのオーナー)が主に受け入れをしていた頃ですよね。中山さんとは昔から面識があったんでしょうか?
大槻)俺にとっては20代のころは、ちょっと怖い人で、あんまり近づけない感じではあったけど。
〈広島リアルジャズ集団〉の中心になっていた人たちは、ある程度中山さんと付き合いができていた人たちだったので、その関係で芝居も観にきてくれていた。
俺らがテント芝居をやる大きなきっかけになったのは中山さんが中心になってやった『もうひとつのアジア大会』(1994年10月)という動きの時に〈独火星〉という劇団のテント芝居に〈アルルカン〉として一緒に芝居をやらせてもらったということ。そこから「俺らもテント芝居やりたいんです」って言ったら中山さんが手伝ってくれたりするようになって。
平石)『もうひとつのアジア大会』を補足しますと、1994年に広島でスポーツの国際大会の『広島アジア競技大会』というのがそもそもあって。選手村ができて、海外の選手が広島に来る。そこで市内の各公民館が、1館1国というような形で公民館が担当する国の文化を学び、交流をしていたそうです。例えば己斐公民館がスリランカの受け入れをしていた、と。
大槻)たまたま中山さんがそういう国から来た労働者の人たちとの縁もあって。国がやるのは綺麗事ばっかりじゃないですか。いいところしか展示をしないのを、スリランカでも内戦とかしているから、そういう展示を中山さんが同じ公民館を使ってやったんですよ。
本当の意味でアジアのことを知ってアジアの人と交流すべきだろう、というコンセプトが『もうひとつのアジア大会』。まあ、そこらへんは、俺が主催したことじゃないんで、また中山さんにインタビューして詳しく聞いてください。
平石)なかなかテント芝居の会場を貸してもらえなかったと話されていましたね。テントは西部埋立第五公園のあたりですね。
大槻)商工センターがまだ埋め立て整備中で。何も立ってなかった時代だから、空き地がいっぱいあったんですよ。今も公園にはなっているけど、そこでやらせてもらった。
平石)ライブ、出店などもあったようです。〈独火星〉のテントを使って3つの劇団-〈独火星〉、〈発見の会〉、〈アルルカン〉がお芝居をしていたという。
大槻)その中で〈発見の会〉という老舗の東京の劇団があって、ここの劇団に役者さんはいっぱいいるんだけど、初日にそこから二人芝居で来てくれた。西村さんと飯田さんっていう役者さん。当時はもう二人とも、普段が、ほとんどアル中みたいなんですよ笑。
平石)そのお二人は何歳くらいの方ですか?大槻さんは当時25歳ですね。
大槻)いくつくらいだろう?当時40代とかかな。本当にべろべろで、正体不明な感じなんですよ、昼間から(笑)。「あんな状態で本当に芝居なんかできるん?」みたいな感じ。それが、本番になったらものすごい芝居をするわけ。本当に鬼気迫るようなお芝居するんだよ。それで、役者って本当に凄いな!って思ったの。それが自分が役者を続けてきた原点のひとつだと思う。これを観てなかったら芝居を続けてなかったんじゃないかな、っていうくらい自分の中では大きい。
平石)劇団同士の交流はあったんでしょうか?
大槻)一応繋がりがあって、お互い観にいくと打ち上げ参加したりとか、お手伝いしたりとかね。
テント芝居の良さは終わった後でそこでお客さんも交えて、打ち上げになること。
そこに来た人たちがその場で飲んでわーっと話していくんだけど、朝まで飲んで、いつの間にか殴り合いの大げんかなんてのもよくあった。俺は体が弱かったんで早めに寝ちゃいましたけど。
で、〈アルルカン〉をしばらくやっていると、メンバーそれぞれの方向性の違い、みたいなのが出てきたりして、それで解散して、何個かにわかれたうちの一つが俺がやっていた〈フン賊〉で、もう一つが鈴木まゆちゃんがやってた〈群類風狂フーガ〉。
石谷)僕は関西が長くて、関西にも80年代、小劇団ブームで演劇や小さいサークルがたくさんあって盛り上がって。広島だと演劇シーンはどのような感じだったのでしょうか。
大槻)アマチュアはそれなりにたくさんありましたよ。広大にも演劇部もあったし、演劇部の中で何個かの劇団ができてたりとかしたんじゃなかったかな。OBが卒業後もずっとその劇団続けたりして。
俺自身は、芝居はずっと続けているけど、広島の演劇シーンとはやや疎遠なんですよ。好みの問題もあるけど、あんまり観にいってなくて。深いお付き合いしてる人もあまりいないし、だからそのあたりの演劇シーンみたいなものは、詳しくは知らないです。自分たちのやってる芝居とは、ちょっと立ち位置というか、目指してるところが違うなあ、と思ってた。で、なんとなくそれが反発心みたいになったりして。「俺たちは、あいつらとは違うんだ」みたいな。若かったね。
1996-2004 〈フン賊〉の旗揚げから活動休止まで
「やりたくてやりたくてしょうがなかったっていう、当時はね。お芝居を。」
平石)〈フン賊〉の立ち上げの時の様子を教えてください。
大槻)〈アルルカン〉が解散した後、吉田くん(葉桜由良之助)というのがいて。吉田くんが芝居を全くやったことのない素人の友達二人を誘って、それぞれが台本書いて、3本立ての芝居をACCAでやったんですよね。榎町の地下にある劇場。
二人が台本を書くのも役者するのも初めてだし…吉田くんがまたいい奴なもんで、そっちの稽古ばっかりでやってあげてて、自分が書いた台本の稽古が全然できなかったらしいのね。それで2本演った後で、そんなもん2本立てということにしておけば客にはわからないのに、真面目というか馬鹿だから「すいません、本当はもう1本やる予定でしたが、セリフが覚えられなかったんで今日はできません。すいません。」って謝りに出てきたのね。
そしたら一番前に中山さんがいて、怖い顔してずーっと観ててさ、それ聞いたら「馬鹿野郎!客だって命懸けで観に来てるんだ!命懸けでやれえっ!」って怒鳴ったわけ。「はっ、はい、じゃあやります…」って台本持ちながら演ったんだよね。
俺は吉田を面白いなと思ってたから、「あのまま終えたら勿体ないよ。俺も手伝うから、あれを完成させて上演しよう」って言って始めたのが母体。そこからこいつと芝居をやるのが面白いな、というか、気が合ったのかな。発想がすごく近かったのね。「こんなのやったら面白いよね」「いいね」みたいに盛り上がっていって。
平石)二人で旗揚げということですか?
大槻)最初は完全に二人だった。とりあえずOTIS!のオーナーの佐伯雅啓さんとは知り合いだったので、OTIS!で最初の上演をやらせてもらえることになって。
平石)最初の上演記録が1996年のOTIS!クリスマスパーティですね。
大槻)OTIS!で毎年クリスマスライブがあってその中で芝居をすることになったんだよね。二人で白塗りしてスタンバってたら、俺ら芝居だからおまけというか、最後の出番で、他はバンドのライブ。何組目かな、ずーっと演奏してるんですよ。「これが最後です」とか言いながら客席も盛り上がって「もう1曲やろうかな!」「イエー!」ってなって、終わらない。俺ら白塗りしてずーっとスタンバってるのに「いつ終わるんだよ」って思いながら(笑)。そんな感じで始まったのが最初だった。
平石)元々OTIS!とはどういう繋がりだったんでしょうか?劇場というよりライブハウスというイメージですが。
大槻)最初は吉田くんがよく出入りして、佐伯さんと仲良くなってたのかな。
多分お芝居をやったのは俺らが初めて。音響だけは知り合いに頼んで音だしてもらってたんだけど、当時はカセットテープですよ。でも照明をやってくれる人が見つからなくて。
で、どうしたかというと、俺が書いた台本が「壁の中に埋まっている男」っていう、諸星大二郎みたいな設定で。壁って言っても、OTIS!で本番当日しか仕込みできないし、セットはビニールシート垂らしただけですよ。ビニールシートに二つ穴を開けて、顔と、右手を出して。(ビニールシートの)後ろに手製の調光卓を置いて、自分で左手で照明操作やりながら芝居してた(笑)。手元が見えてないから「あっ、間違えた」とかなりながら。
平石)そんな装置のDIYもして。すごいですね。
大槻)それで音楽を頼んでた人が3回目か4回目ぐらいの時に、突然連絡が取れなくなっちゃったの。本番が迫ってるのに。それで急遽、佐伯さんにやってもらったのね。そこから佐伯さんも段々面白くなってきちゃって、佐伯さんに曲をつけてもらうことになった。その後は解散するまでずっと佐伯さんに音楽作ってもらってたね。
平石)〈フン賊〉の名前の由来ってなんですか?
大槻)思いつきですけど、俺がつけた。本名が大月なんですよ。大月氏国という国が歴史の中で出てくるんだけど、それがフン族の国で、フン族は中国では匈奴って呼ばれてますよね、万里の長城作ったのは匈奴から守るため。中央アジアの遊牧民なんだけど、ヨーロッパまで攻めたりして、有名な「ゲルマン人の大移動」につながる。でも、どこからきたのかよくわかっていない民族で、ちょっと謎で縦横無尽に動き回ってるイメージが面白いからそんな感じにしようと思って。笑。
でも民族の「族」だとそのままだから、「俺らは悪い奴らです」っていう意味で海賊の「賊」。「俺ら賊です。タチの悪いやつです」って宣言をして(笑)。
平石)OTIS!では『ライブシリーズ』というのがありますね。97年1,3,4,5,6,7月が『ライブシリーズ』。
大槻)馬鹿だったね(笑)。今考えるとよくあんなことやったな、っていうか、俺も吉田もあれやりたい、これやりたいが溢れてたの、当時。だから台本いくらでも書けちゃうの。
「あれやったら面白い」「これやったら面白い」って。
二人が二人とも台本書くから二本立てなんですよ。次々書けちゃうから毎月やってたんですよね。
最初の年、半年で6回やったかな?月に1回新作で2本立てをやるって馬鹿だよね。(笑)。
台本書き上がるのがいつも前日ぐらいとかだったりしてね。
平石)何分ぐらいのお芝居なんですか。
大槻)1時間ずつ、いや、1時間もなかったかなあ。1本が3-40分かな。にしてもね、よく本当にやったなあと。セリフもなんとか覚えられるんですよね。
ま、でも覚えられなくても、アドリブでなんとかしちゃうみたいな。鍛えられましたね。
最初の年は本当に二人だけ。次の年からはちょっとずつメンバーも増えて行ったりして。
平石)いわゆる「劇場」じゃないところが多いですね。テント芝居の流れから、上演場所はどこでもやるという形でしょうか?
大槻)うん、むしろ劇場は嫌だった。
平石)(チラシを見ながら)この時の〈フン賊〉は何人くらいですか?
大槻)6−7人くらいかな。これは最後の頃ですね。固定的なのが4−5人いて、入ったけど1、2年でやめるっていうのも何人かいて入れ替わりながら。
平石)これを隔月というかハイペースでやるのは、結構、凄いですよね。
大槻)最初の年は半年で6回やったけど、さすがにだんだんキツくなってきて、次の年は4回、3年目は3回に減らして、それでこのシリーズは終わったのかな。
平石)大槻さんが20代後半から30代までな訳なんですけど、このOTIS!での『ライブシリーズ』の他に毎年10月にテント芝居をやっていて、場所も比治山三段公園とか、西部埋立第5公園。それと、広島駅東貨物ヤード跡地(現在のマツダスタジアム付近)。ここは結構いろんなテント芝居をやっていたところですね。当時はそういう、使える場所があったんですよね。
大槻)そうなんですよ!空き地とかたくさんあったんですよ。公園も今より使えた。
平石)それは市に許可をとって。
大槻)うん。それぞれ管轄が違ったりするけど。まだ、役所もゆるかった。
多分今と、法律とか条例が変わったわけじゃないんだよね。ダメなものは昔からダメなんだけど。昔はお役所も融通利かせてくれたっていうか。本当はそれはやっちゃダメなんだけど、苦情が来なかったら役所としては見なかったことにしますから、みたいな融通を利かせてくれてたのね。
もちろんそれで問題おこしたら次の年から使えなくなったりするんだけど。大体テント芝居の集団っていうのはそういうのやって使えなくしちゃう悪者だったりする(笑)。
平石)火を焚いたりとかするからですか(笑)。
大槻)そうそう(笑)。ダメって言われてるのに盛大に火を燃やして芝が焼けちゃうとか。
でもね、当時は結構融通利かせてくれてたんだよ。それがだんだん管理がキツくなってきて、ダメなものはダメですって感じが多くなった。
平石)それから、2000年にアビエルトができるんですよね。プレイベントが大友良英さんのソロライブで。ライブは問い合わせ先が〈広島リアルジャズ集団〉になってますね。
大槻)権田くんはアビエルトを〈広島リアルジャズ集団〉のライブやる場所としても考えてたのかもね。
この頃は俺は死にかけて入院してたの。
この年の前半にやってたOTIS!ライブシリーズの最後の回だから、6月ころかな、そのひと月前くらいからずっと調子が悪かったの。定期的に通院はしてたんで、病院行くんだけど、主治医は、「血液検査の数字はそんなに悪くないけどね。まあ様子見ようか」って。
でもずっと調子が悪いわけ。本番2日前に、「先生、本当に調子悪いんですよ」って訴えたら、「じゃあエコー撮ってみる?」ってエコー撮ったら「うわ、これ腸が破れかけてる」って。
腸は穴が空いてるけど、腸管膜が破れてないから、腹膜炎にならずに済んでる状態。
平石)緊急入院レベルってことですよね
大槻)本来ね。「なんとか明後日本番まで持たせれられませんか?」って「じゃあ抗生物質処方しておくけど保障はできない」って。「役者は舞台で死ねたら本望」なんて意気込んでたけど、結局本番当日の昼前、準備しながらもう本当にヘロヘロで、これはさすがに本番の舞台に立てる状態じゃないな、って思ったんで「ごめん!佐伯さん、病院連れてって」って、そのまま入院した。
その時は俺の一人芝居と、他のメンバーの芝居っていう2本立てで、俺の演目がなくなったの。だけどもう1本が、吉田がタロットカードをお客さんに配って、引いたカードによって話の筋が変わるっていう訳がわからん台本を作ってたのね。たまたまそういう趣向だったから、それを2回やったらしいんだよ(笑)自分のが一人芝居だったっていうのは、俺が抜けても他の役者は舞台立てるんで、まあ不幸中の幸いではあった。
一同)(笑)
大槻)そんなこともあって、入院しちゃってたから、アビエルトの立ち上げのときは俺はあまり関われなかった。
平石)なるほど。でも退院後もすぐ復帰されたのか、2000年は〈フン賊〉の公演が多いですね。10月に貨物ヤードで『バビロニアバブルベイビー』というテント芝居をやって、12月に『フン賊のデナーショオ(ライヴ)Otis!』。普段のOtis!での『ライブシリーズ』で鍛えていく感じなんですか?
大槻)鍛えようみたいなのもあったけど…まあやりたくてやりたくてしょうがなかったっていう、当時はね。お芝居を。
平石)2002年には『薔薇販売人/遊星からの物体X』を7月にアビエルトで上演。
大槻)はじめてオリジナル脚本じゃなくて小説を原作にした芝居をやったんですよ。
いつもと違う場所でやるから違う手法でやろうって。2本立てで、『薔薇販売人』(原作:吉行淳之介)は俺、『遊星からの物体X』は吉田が脚本。吉田がまたバカというか、真夏の超くそ暑い時なのに『遊星からの物体X』だから南極基地の話ですよ。みんな衣装は厚着(笑)。もこもこの衣装着こんで(笑)。
で、しかも俺が一番最初毛布をかぶっている状態で板付きなの。その状態で最初5分くらいずっと映像を流してるっていう始まり方だった。暑すぎて死ぬかと思った、毛布の中で(笑)。
アビエルトでやったのはこれが初めてですね。せっかく出来たから使わなきゃね。
平石)2000年前後はいろんな劇団の公演のクレジットにけっこう同じ名前の人が入っているんです。
当時は「手伝いをしました」という、劇団員ではないサポートする人たちが、一定数いたんですね。
大槻)当時はプラプラしてる人がいっぱいいたんですよ(笑)
平石)観るのが好きで出演はしないけど関わる、という人たちがシーンを支え続けてたのかなと思いました。
それから、2002年の旧日本銀行広島支店での『Yen 同時触発アート 2002HIROSHIMA』でもパフォーマンスをされてます。
大槻)〈フン賊〉のときから知り合いで、上杉知弘くんという写真家がいて。当時のボスニア紛争の頃、この辺の地域に写真撮りに毎年行ってたんですよね。戦場写真とかじゃなくて、内戦をやってるところの、そこで暮らしている普通の人の写真みたいなのを撮ってて。
彼がこの時に、旧日銀の地下金庫にアウシュビッツで自分が撮ってきた映像を壁に映してたの。
そこで「何かパフォーマンスして」って言われて、「ちょっと待って。重すぎる!そんなもの背負って俺は何をやるの」と。あれはキツかったね。
もう大概のことは、あれに比べれば大したことないと思える。精神的には、あれほどきつかったことはない(笑)。
逆にあれで怖いもんなくなって、あれよりプレッシャーなことなんてあんまりないと思えるようになった。それこそホシチカ(『ホシハ チカニ オドル』)も原発事故の話を扱ってて、見る人がどう思うのかって考えると、すごい怖い内容なんだけど、あれをやった経験があるから立ち向かえるというか。
旧日銀は被曝建物というより、建物自体が持ってるパワーがものすごいと思う。モノそのもののパワー。
個人的にも使ったことがあるけど、ここを使うんだったら、もう丸ごとこの建物の存在感と対峙するつもりがなかったら、ここを使う意味ないなって思う。
ただ作品並べましたとか、無料で使えるからとか、自分にとっては、そんなことですむ場所ではない。
あそこでやるからにはあそこの存在感とどう対峙するのかっていう、相当な覚悟を持ってやらんといかん、そういうものでなかったらやる意味がないと思った。
それだけの構想を自分では未だに思い描けないんで、それから使ってないですね。
2005-2019 〈単独旅行舎〉から、さまざまなコラボレーション
「零れ落ちちゃう綺麗事じゃない部分があるじゃない?そこんところをやるのがアートの表現の役割だと思ってる」
平石)〈フン賊〉時代から一人でパフォーマンスもすることはありながらも、〈フン賊〉を解散後に2005年から〈単独旅行舎〉といういわゆるソロプロジェクトを始められますね。活動の幅が広がるというか、演劇の枠に縛られない感じになっているように見えます。
大槻)〈フン賊〉の最初はやりたいネタが山のように溢れ出てきてたんだけど、流石に8年くらいやりまくったらネタも尽きてきて、でも「ここまでやってきたんだから続けなきゃいけない」みたいな義務感のほうが先に立ってる感じがしてきた。
なにも思い浮かんでないのに、毎年やることになってるからやらなきゃ、みたいな。面白いと思えてないのにやる意味があるのかって思って。ちょっとマンネリ感も自分の中に出てきて。
それで「とりあえず一回お休みしませんか?それでやっぱやりたい!ってなったらまたやればいいし、そうじゃないんだったらもう別にやらなくていいんじゃない」って切り出して、解散じゃなくて活動休止っていうことにしたんだけど、結局あれからやってないので事実上の解散ですね。
吉田くんとやるんでなければ〈フン賊〉を名乗るつもりもないですし。
〈フン賊〉が休止したところで、じゃあ自分は何がしたいのかと考えた。
自分は台本書く人だったから、頭でっかちというか、言葉のほうに頼っている芝居だったのじゃないかと思ったんですね。舞台も身体を使って表現している以上は、身体でもなにか表現しているわけだけど、その意識がどれだけのものだったか。じゃあもうセリフとかなしで身体だけでなにが表現できるのかっていうことを試してみよう、と思ってダンスパフォーマンス中心のことをやりだしたのが〈単独旅行舎〉。
谷本仰さんとやり始めたのもその頃だね。
平石)谷本仰さんはミュージシャンですね。
大槻)元々〈アルルカン〉の頃に一緒にやってた森川良哉っていう尺八吹きがいるんですよ。彼が福岡の出身で、大学卒業後に福岡に戻って、小倉の谷本さんに出会って、二人でOTIS!でライブをしに来たんです。その時に観に行ったら良哉が「大槻くんのところ泊まれない?」って、家に2人が泊まりに来た。何を喋ったかは覚えてないけど、そのときの話が、谷本さんは面白かったみたいで。
俺は〈単独旅行舎〉でダンスパフォーマンスみたいなのはやってたけど「ずっと芝居してないなあ。このまま芝居せずに終わるのかな。」みたいに思ってた時期でね。
谷本さんも音楽活動の転機みたいなところが自分の中であったみたいで、その次の年に『谷本仰 Dialoguesシリーズ』っていうのを始めるんですよね。ぜんぜん違うジャンルの人、音楽に限らず色んなジャンルの人をゲストに招いて、月に一回即興的なセッションをやるっていうことをやりはじめていた。
谷本さんがバイオリンで、他の人とコラボして何ができるかを試すっていう。その7回目にゲストで呼ばれたんだよね。でも、1晩話しただけで、谷本さん、俺の芝居見たことないわけ。
「いいんですか?」って聞いたら「あの時話してすごい面白かったから、絶対あんたは面白いはずだ」って言って呼んでくれたのね。「じゃあなにが出来る?」って悩んだけど、でもここで「出来ませんよ」って断ったら、俺もうこの先何も出来なくなっちゃう気がして、何していいかわかんなかったけど、とにかく引き受けようって思った。
で、谷本さんは「役者」として呼んでくれたんだからと思って、久しぶりに台本書いて。でもこの時の内容が、ずっと後に『ホシチカ』に繋がっていくんだよね。
2005年の9月、会場はケイトミュージック、『死者の書(てがみ)』
谷本さんは小倉で、『呆けすとら』っていう「小倉版”渋さ知らズ”」みたいなのをやり始めてね。牧師さんで、ホームレス自立支援の活動もやっているんだけど、その『呆けすとら』でホームレスの越冬支援のカンパを集めるライブを毎年やってた。そこに俺もゲストで出るようになって、そんな感じで頻繁に共演が続いてきた。
平石)大槻さんが北九州のイベントが増えてきてるのはそういう理由なんですね。
大槻)〈フン賊〉も一緒にやってた田中亮太郎君というのが、〈独火星〉が韓国で公演した『新しい天使』を観たんだよね。それでいたく感激して「これをやりたい」って言い出したの。
それで〈フン賊〉でやるんじゃなくて、お前が座長として責任を持ってやるっていうことでやるんだったらやってもいいよって言って、その一回の公演のためにつくったユニットが〈アリノネ〉ね。これも谷本さんに劇伴お願いして、広島と小倉で上演した。
平石)〈アリノネ〉は『新しい天使』を2006年に3月アビエルトと10月に小倉で、2公演。あと、その間に、朗読『おこりじぞう』もやってますね。
大槻)『おこりじぞう』朗読も何回かやってるね。朗読、好きなんですよ。
平石)それと、『CHARUN’POLARISM』(チャランポラリズム)シリーズも始まって。
大槻)コンテンポラリーダンスとか言うのもなんか違うし、俺がやってるのはジャンル関係なく勝手に踊ってるちゃらんぽらんなダンスだからチャランポラリーダンスだなって思って(笑)
平石)場所の記載がないですけど、これはどこでやってたんですか?
大槻)ゲリラでやったこともある。ホテル前のオープンカフェみたいなところを、知り合いがやってた時期があって、そこで一回やった。その時にライブペインティングをする奴が、ウェディングドレスを着せた案山子みたいなのに、赤いペンキをどばーってかけるパフォーマンスをやってさ。でも、その日ちょうどホテルで結婚式やってたんだよ(笑)
一同)(笑)
大槻)カフェの店主は「またやってよ」って言ってくれて、2-3ヶ月後にまたやることになったんだけど。前日になって「ホテルの方からやってくれるなって言われて…」って。どうするかな、でもやるって告知しちゃったしな、と思って。じゃあゲリラでやっちゃうか、ということになって基町の中央公園でゲリラでやりました。できましたよ。意外となにも言われないもんだなって(笑)
準備するのになんか小さいジェネレーターも持ち込んで…スピーカーから音出して…色々セッティングしてるんですよ。
管理の警備員かなんか自転車で通りがかるときに「やばいかなあ」と思ったら、なんか「あ、ご苦労さまですー」みたいな感じで。意外と大丈夫なもんだね、みたいな(笑)苦情さえ来なかったらいいんだよ、通報されなければ。
他にもゲリラパフォーマンスは結構いろいろやった。
とにかくミクスチャーすることが面白かったというか。いろんなジャンルの人、ダンサー、役者、ライブペインティング、ミュージシャン。どうやって混ぜながらパフォーマンスで辻褄をつけるか、というのをやっていた。一応、俺がリーダーでやる集団パフォーマンスが〈単独旅行舎〉。固定メンバーがいるわけではない。
平石)一緒にやりたい人はどうやって探すんですか?
大槻)ある程度続けてたら、知り合っていくのでそれで繋がっていく感じですね。知り合って、こいつと何かやりたい、ってなって、アイディアが出てくる。で、やり続けていると、そのサイクルが連続していくような感じ。だから計画性とか全然なくて、流れに乗っていくだけみたいな。でも流れ自体も自分で作らないとサイクルが連続しないから、やり続けるしかない。
平石)〈単独旅行舎〉の活動は記録しきれてないかもしれないくらいたくさん出てますよね。
2006年は映画の撮影、2010年公開されたバティスト・べセット監督の『黒い花』に主演されています。
大槻)ヒロシマ平和映画祭に関わってたんだけど、そこでバティスト監督が広島で映画を撮りたいっていうから協力してくれ、ということで。彼はフランスで原民喜の『夏の花』とか、大江健三郎とか読んで構想をたてて来たけど、実際の広島に来たら思っていたのと何か違うぞ、と。現代の広島だから。
そこから今の広島に対して感じることで作品を作ろうとしたみたいだね。でも『夏の花』は入れたいっていうので俺が朗読することになって。俺がダンスパフォーマンスをやっているのを知ったら「ぜひそれも撮りたい」ということになって縮景園で撮ることになった。
彼ら3人のチームで8ミリ持ってきていて、それで機材のセット準備に結構時間がかかる。なので、その時間はウォーミングアップだと思って適当に踊りだしてたの。
本番のために、この場所はどうかな、ここは使えるかな、とか、木の枝にぶら下がってみて「見た目は面白いけど、体の自由は効かないからこれはナシだな」とか思いながらいろいろやってたの。
で、何にも声がかからないから、興に乗ってしばらく踊ってて、キリがついたところで、「それにしても準備時間かかってるな。」って彼らの方を見たら、いつの間にか撮影してて、「OK!ビューティフル!」だって(笑) こっちは「はあ!?」って、それで収録OK。
「ナシだな」と思った、木の枝にぶらさがってるところも、そのまま使われちゃってた(笑)。
平石)2004年以降は伊勢公演もちょこちょこ入ってくるんですよね。
大槻)伊勢にシャンバラっていう、エスニック衣料を扱っているお店があって、そこが野外のお祭りを毎年やってたんですよ。
それにOTIS!の佐伯さんのバンドが、呼ばれて行ったときに一緒に〈フン賊〉もついて行って、そこで芝居をした。俺も野外だから火吹いたりとかして。それやったら「おー、火を吹く人が来たー!」とか言って喜ばれちゃって(笑)。「また来年も来てくださいよ」みたいな感じで、何回か行って。
平石)火を吹くのは自分で覚えたんですか?
大槻)うん、練習しましたね、可部の河原で。何が火を吹く時の燃料として適しているか、っていろいろ買ってきて試した。最悪なのは工業用アルコールだった。よう燃えるんじゃけどね、口の中が痺れて、えらいことになって。これはヤバいなって。
テント芝居でよく使う配合は灯油とガソリンを半々くらいで混ぜたやつなんだけど、結局これが一番やりやすい。
多少体に入ってもまあ、死にはしないしね。そこまで大がかりに出来ない、ちゃちゃっとやっちゃう時は、ライターオイル。燃え方が違うけど、ライターオイルは揮発性が高いからボッって一瞬だけで、ブオアアアーって感じにはならない。
平石)やらないと分からないことですね(笑)。
大槻)ちょこっとやるのはライターオイルだね。「やるかやんないか分からないけど、一応用意しとこ!」みたいな感じで、ライターオイルを持って準備しとくと「今日は出来そうだな」って思ったら、ライターオイルをパッと飲んでプーっと(笑)
平石)この2010年の『ホシハ チカニ オドル』の、プレというべき『ダイヤローグス・インザ・ダーク』があってから現在のタイトルに改名して、以降10年で50公演。
大槻)1ヶ所で2公演とか3公演とかやって、20ヶ所ぐらいやってる。
最初の『ダイアローグス~』の時は、ちょうど上関の原発の工事が再開しかかってて、広島でも上関原発に反対するムーブメントみたいなのが起きたんだよね。広島市立大学国際学部の湯浅正恵先生とその前からちょっと知り合ってて、彼女から「原発に反発するムーブメントの中でパフォーマンスしてくれん?」って頼まれたんですね。
そういうテーマだったら、一緒にやるのは谷本さんしかないなって思って谷本さんに声をかけて。
最初は並木のkobaでパフォーマンスとしてやったんだよね。ある程度構想だけは作って半分即興的な感じでやった。
でも、俺は表現するときに1つのテーマを、「〜しましょう!」とか「〜に反対だ!」とかそんなことを言うために、芝居とかパフォーマンスとかをやるべきじゃないと思ってる。そんなことをしたいんだったら、スピーチでもなんでもすれば良いんで。
そこから零れ落ちてしまう矛盾したところだとか、「そうは言っても人間ってこう、こうだよね」みたいな、零れ落ちちゃう綺麗事じゃない部分があるじゃない? 言葉に出来ないあわいのところとか。
そこんところをやるのがアートの表現の役割だと思ってるから、上関原発に反対するっていうムーブメントの中でやるけど、単に「原発反対」みたいなことじゃないものをやろうというのはあった。
そこで谷本さんとも考えが合って、やってみたら、「俺らがずっとやろうとしとったことって結局、これなんじゃない?」みたいな手応えがあったのね、そのパフォーマンスの後。
俺と谷本さんが出会ってお互いが惹かれあって一緒にやってきたのって、こういうことをやるためだったよね、と。
「これはちゃんと作品化しよう」ってことになって、作品化して、とりあえず広島と小倉で2回やりました。
平石)作品化というのは、パフォーマンスよりはシナリオがあるっていうことですか?
大槻)そう、即興性の部分も必要なのでちょっと残しているけど、決まった構成と、セリフもきちんとあってっていう再現性のある形にちゃんと作って。
でもね、テント芝居ってそうなんだけど、再演しない主義だったの、基本的には。
だから『ホシチカ』も広島と小倉で公演して、終わりのつもりだったんよ。
そしたら2011年2月にアビエルトで公演やった直後、3月に大震災ですよ。原発が実際に事故を起こしてしまった。で、内容がもろに被っちゃったんで…これはもうやめられないことになっちゃったなって。やり続けないとって。
こんなことは本来は起きるはずがない、起こってはいけないと思って作ったんだけど…反面、チェルノブイリもあったし、起こりうる、ということも前提として作ってる作品でもあって。
本当に実際に事故が起こった時に、想像の中で作っていたものが、現実に起こってしまったものに耐えられるか、これをこのまま上演しても大丈夫か、っていうのはやっぱり俺と谷本さんと、それから北九州の谷瀬未紀プロデューサーとで話したけど、「これはむしろやった方が良い。今だからこそやる意義がある内容だ」っていうことになって。
内容もほぼ変えずに、ずっとその後やり続けることになった。自分の中で再演続けるっていうのも初めての経験で、大事な作品になりました。台本段階から谷本さんとかなり言葉を重ねたのと、谷本さんの生演奏があって成立する作品でもあるので、あんまり「自分が書いた」作品という感じがしないせいか、何度やっても自分自身にとって新鮮な作品です。
平石)2013年の『贋作・ホシハ チカニ オドル』だけは違う内容の公演なんですか?
大槻)『ホシチカ』では大きな階段をセットで作るんだけど、もっといろんな場所で公演するために、小さい所でも出来るように、階段が無くても成立するバージョンを作らないか、っていうことになって。それをちょっとアビエルトで試しにやってみようっていうことになったのが贋作版。シーンの構成とかが変わるんで。
平石)並行して若林美保さんと谷本さんの即興のユニット〈Dance improvisation[two]〉があって。それもハイペースにされてますね。いろんな小屋を回ってて、ストリップ小屋みたいなとこもあれば、劇場みたいな場所からカフェとかでもやってる。
大槻)それから〈ちぎれた女〉では俺と牧瀬茜ちゃんと華道家の羽鳥智裕くんでやる事もある
〈乱葛〉は牧瀬茜ちゃんと広島のベーシストの梶山シュウさんの3人のユニット名。
若林美保が最初、谷本さんと二人で小倉で一緒にやる機会があって、そのあと谷本さんから「若林さんがスゲー面白かったんだよー!」って聞かされたのね。「あっ、そういえば広島もストリップ劇場あったよね?」って見に行ったら、ちょうどわかみほ(若林美保)乗ってて、本当に「おっ、この人スゲー!」って思った。それから知り合って谷本さんと3人でやることになった。
茜ちゃんは丁度同じ頃に、川上譲治さんっていう写真家の人が、この人は大宮のストリップ劇場をやってたんだけど、故郷の浜田に戻ってきて、ずっと撮りためた写真があるから、「せっかくだからそれはちゃんと表に出したい」ってことで、ギャラリーGで写真展することになったんですね。共通の知人に紹介されて、俺も手伝うことになった。その時に茜ちゃんの写真も展示されるから、一緒に彼女も来るって話だった。
で、俺がわかみほとのパフォーマンスにちょっと味を占めてたから(笑)軽い気持ちで「来られるんだったらなんか一緒にパフォーマンスとかできたら良いですね」って。どういう人なんか全然知らんのに。でも「是非やりたいです」って返ってきて。
こういう時に対応ができる広島のミュージシャン…シュウさんかなって思って。古くから知ってたけど一緒にやる機会がずっとなかったし、初対面でも安心して即興的に合わせられる人だろう、と思って。だから3人でギャラリーGで当日初顔合わせ、初めて一緒にやって。その時、2月にギャラリーGの池に入りましたね。さすがにヤバいかな、と思って毛布たくさん用意してたんだけど、冷水浴効果で終わったら体ポッカポカだった(笑)
面白いのがね、茜ちゃんとはもう最初から、「そうそう、そんな感じ!次の展開こうよね!」みたいな、分かり合える感じで進んでいく。シュウさんもそう。即興だからどうなったら終わりとかも決まってないわけ。でもやっぱり、それぞれが皆の、「これで終わりの感じだよね!」っていうところを3人が思ったらそこでバッと、上手く終わるわけだよね。
初めてなのに本当にすんなりずーっと進んで行って終わる、「うわあー、気持ちよかったー!こんなことあるんだー!」って思うような感じがあったの、茜ちゃんとは。
で、逆にわかみほは…全然わからん!(笑)「この人どうしたいん!?」こっちは合わせたいのに「えっ、そうくるの!?」みたいな。「えっ、そうやっといてどう終わらせる気なの!?」みたいなことをやってくるんだよ。そのスリルが面白い。「えっ、どうなるの?これ、どうなるの?」ってやりながら、最終的にはギリギリのラインで「ここでしょう…ね!」って所にちゃんと着地させるんだけど。
それがね、だんだん、ずーっとやってるとね…逆転してきた。わかみほのパターンも少し分かってきて読めるようになって。
茜ちゃんはね…時々変なことをするようになった笑。いつもと同じじゃあ面白くないなって思って、時々訳が分からんことをするようになった。「えー!マジですか!?」みたいなことを、突然混ぜ込むようになったの。いきなりコントみたいな感じに持って行ったりとかして。
年を経るごとに逆転していったのが自分的には面白い(笑)。二人とも、ストリップダンサーとしても、パフォーマーとしても本当にすごいんで、このふたりとやれたのは幸せな経験です。
平石)それは、今もやっているんですか?
大槻)うん。でも第一劇場が無くなったから機会は減るだろうね。彼女たちが第一劇場に乗るときに合わせてやったりしてたから。なかなか広島でやる機会が少なくなったけど、うまくタイミングが合えばやるだろうね。
〈ちぎれた女〉は羽鳥くんが割とまめに企画してくれて、茜ちゃんが道後ミュージックに乗るときに広島に寄ってくれるんで、今も年に2~3回やってる。茜ちゃんはヲルガン座のイズミちゃん(ゴトウイズミ)ともよくやってるし、割と広島には来てくれますね。
2020-2022 コロナ禍とこれからと
「ジャンルを飛び越えた中で横断的に色々やっていかないと面白くないですね。できるだけそういう場を作りたい。」
平石)コロナの時はどうされていたんですか?お芝居やパフォーマンスはコロナになった時にやりにくくなったりとかありましたか。
大槻)ちょっとだけね、俺はあんまり気にしなかったから。
さすがにいっぱいお客さん集めるっていうのはちょっと難しいなって思ったけど…少人数でお客さんが来ても10人とかみたいな小っちゃいパフォーマンスとかだったら、関係ないって思ったから、結構やり続けてたよ。
あんまりナーバスになっても、表現する側からしたらすごい危機だし。何も出来んような状況にしてしまったらね。一回流れが途絶えたら、元に戻すの難しいし。
たくさん人を集めるようなものっていうのはやりにくくなったけど、だからって何にも出来なくなって、オンラインでしかやれないみたいなことになったら…。もう、それこそ、生(ライヴ)にこだわってやってきた人間としては、そんな形でしか出来ないっていう風になると本当に危機的なことだから。
どんな形でもやり続けないとマズイ、と。だから、じゃあ少人数の企画を数撃てば良いじゃん!みたいな、発想だった。
平石)書いてるときと演じてるとき、どちらが楽しいですか?
大槻)やっぱり舞台に立つ時が一番楽しいんだと思う。大体役者やってるときが一番生き生きしてるね、って人に言われるから(笑)。役者として芝居してる時が一番楽しいとは思ってる。でも書くのも踊るのも、受け入れやお手伝いするのも全部楽しいけどね。
平石)総合芸術だけど1人でも成立をする、すごく不思議
大槻)すごいよね、何もないところで役者がちゃんと演技すれば、今、雨ですとか、今、夜ですって、見てる人は皆「雨だな」「夜だな」とかちゃんと感じることができるわけでしょ。
イッセー尾形さん好きなんだけど、女性役の一人芝居で、衣装着てメイクしても、見た目はやっぱりイッセーさんでしかない。なのに演技が始まると、もう「こういう女の人いるよなー」、と思えてくるもんね。語り芸も好きだけど、語り口や所作だけでオーディエンスの想像力をふくらませて、そこに無いものを見せることができる。
ちょっとまた話が違うけど、谷本さんと「死者の書(てがみ)」をやったとき、すごく悩んでたら、谷本さんに「表現者って、イタコみたいなもんでしょ」って言われたのね。その時、自分の中で、「あ、そうか、自分が全部をわかってて背負わなくても、窓になればいいだけなんだ」って思ったの。
窓を開いてあげることができれば、見た人はそれぞれが想像力を働かせて、俺の中に無いものまで見てくれる。それでいいんだって。俺の中にあるものなんて、いくらがんばったって所詮ちっちゃいものだから。そう思ったら気が楽になった。
表現するっていうのは、自分を見せるってことじゃなくて、それ以上の何かを見せることなんだよね。「自己表現」なんて、実はあんまりたいしたことじゃない。歳取るごとにそう思えてくる。
「自己表現」を追及するのも、若いうちは大事な経験かな、と思うけど。そもそも「自己」なんて、確固としたものがあるわけじゃなくて、それはすべて他者との関係の中でできてるもんだから。
平石)脚本を書くときっていうのは誰がやるとかある程度想定して書かないといけないのでしょうか?
大槻)脚本家によって違うでしょうね。テント芝居なんかは基本的にはアテ書きだけど。商業的なやつはオーディションでその役に合う役者を選んでくればいいわけだから、脚本家がストーリーと登場人物を作って、それに合う役者をオーディションで選べばいい。テント芝居とかだったらその集団にいる役者で(脚本を)作らないといけないわけだから、こいつにどんな役やらせようかと考える。演出でも、役者の個性を尊重するタイプと、あくまで自分の構想をできるだけ具現化させようとするタイプとか、やり方はいろいろありますよね。
テント芝居っていうのは、テントの構造自体は一緒でも、やっぱり野外だから、公演地ごとに全然違う場所に立てるでしょ。
芝居という非現実を、最後に現実とリンクさせる意図もあって、背景の幕を最後にとっぱらって、外の景色を見せるっていうのが、テント芝居のひとつのパターンなんだけど、公園のときもあれば空き地だったり、神社の敷地だったりするので、それは場所ごとに違う。がらんとした空き地のときもあるし、ビルが建ってることもある。それによってイメージも変わっちゃう。
どういう場所でやるのかは台本書く時にすごく大きな要素になるね。テントでなくても、箱でやるにしてもどこの箱でこれをやるのか、がないと、なかなか脚本を書くイメージが湧かないですね。
平石)コロナ禍で、カフェ・テアトロ・アビエルトでは中山幸雄さんが総指揮のもと、桜井大造さんが脚本・演出の、〈広島アビエルト芝居小組〉による三部作公演が立ち上がりました。2020年から2022年まで3つの公演があって、大槻さんも出演されています。
大槻)アビエルトが20周年になる中で「この先アビエルト、どうする?」っていうタイミングで大造さん(桜井大造)が、アビエルトで何かやりたいと言ってくれたんですね。大造さんは〈野戦之月〉という劇団で本来は東京と台湾とか、韓国でやったり北京でやったりと海外でも公演するけど、コロナで海外公演が出来なくなって時間ができてしまった。それで、アビエルトのこれからをどうしていくかっていうことのベースづくりの一環になれば、っていう意味も含めてやろうと。
1回だけじゃやってお仕舞いになっちゃうから3年くらいやれば何か見えてくるから3年間はやる、という約束で台本書いて演出してっていうのを、やったんですね。
平石)ところで大槻さんはアビエルトで働いているのはいつ頃からですか?
大槻)いつからだっけ。イベントがあるときは照明オペで初期からずっと行ってたけど。カフェやり始める前は法律事務所で働いていました。
でも、そこを辞めることになって。それで、アビエルトにずっとカフェの設備はあるけど、誰もやってない状態。でもそれじゃあ勿体ないなってずーっと思ってて、だからちょっとカフェ、やってみようかな?出来るかどうか分からんけどやってみようかなと思って、はじめた。
平石)じゃあ最初は「カフェに入ります」っていう感じだったんですね?(現在カフェは休業中)
場所はアビエルトには限らないですが、他の劇団やミュージシャンなど、広島での公演の受け入れをする事も多くなりますよね。例えば、劇団〈楽市楽座〉の公演の受け入れもされてましたね。
大槻)俺は彼らの芝居を見たことなかったんだけど、『ホシチカ』の谷瀬プロデューサーから、広島公演受け入れしない?って話があって。
家族で旅公演で投げ銭?いまどき、それで成り立たせようとしてるの?って。それが成り立たないような世の中は嫌だと思ったから、受け入れをやることにした。芝居は見てないからわからなかったけど、それは関係ないと思って。そんなスタイルで活動しようとしてる人、それは成立させたいって思った。
受け入れも見よう見まねというか。俺もやれることって限られてるから、なかなか不十分なんですけど、やっぱり誰か受け入れをする人がいないと成り立たないないじゃないですか。
テント芝居で影響されたから、本当は旅して回る、っていうのはすごく憧れがある。
でも病気抱えてたりとかもあって、旅公演しながら生活していくのは、俺にはちょっと無理だなと思って。でも自分も県外で公演しようと思ったら現地の受け入れする人は誰か居てくれなきゃできないじゃ無いですか。
それでそういう人たちを受け入れる人になれたら、という気持ちはある。文化向上とか交流だとか何とかいろいろ言ってもやっぱ受け入れる人がいていろいろ場を作らないと成立しない。そういう人がいないと交流しようがないからね。
平石)その土地とちゃんと絡むっていうのは、そこに受ける人がちゃんといないと、いい出会いがなかったりしますね。
今後は何かやりたいことはありますか。いわゆる三部作も終わって、1プロジェクトが終わったという感じですか。
大槻)〈広島アビエルト芝居小組〉は、続けていくっていうことになってるんですが、大造さんも海外での活動も再開されるし、今までとは違う形でやることになりますね。それをどういう形で続けていくかっていうのはまだ模索中です。
自分の中では、『ホシチカ』を10年続けたんで、それ以降、新作を作ってないんですよね。イベントとかも続けていける限りは続けていきたいと思うけど、そろそろ新作かなって。やりたいな。
でも、そんなに明確な目標とかは無いです。人間50年だと思ってるので、もう50過ぎたのでおまけの人生です(笑)。せっかくならおもしろいおまけだといいですけど。
平石)大槻さんの活動を調べれば調べるほど、あの人とも繋がってた!ってことがたくさん出てきて。それってテント芝居じゃないとできない、演者もスタッフもお客さんも一緒に何か作っていくというか、そこに集まるいろんなジャンルの人がいる場所というのがあるからかな、と。
大槻)そういうのが好きだし大事だと思っていた。一つのジャンルにタコつぼ的にのめり込むんじゃなくて、横断的にやっていくっていうか。寺山とかもやっぱりそうじゃないですか。演劇も美術も音楽も映画も全くミクスチャーで影響する。だからこそ面白くなるじゃ無いですか。仲間内の中だけで完結してたら、その人の芝居が面白くなるわけないと思うんですよ。
ジャンルを飛び越えた中で横断的に色々やっていかないと面白くないですね。できるだけそういう場を作りたい。企画する時も毛色の違うものをなるべく組み合わせたいなって思う。
クロスさせるんだから、別に仲良くならなくてもいいけど、こんなことやってるやつがいるんだっていう刺激はある。そういう仕掛けを作っていかないと、みんな居心地のいいところに安住しちゃうから。関わらざるを得なくなるような仕掛け、それをちょっと面白いなって思わせるような仕掛けを作っていくと、もっと面白くなると思うんですよね。
(2022.12.21)
(加筆修正:2023/2/25 1994年広島アジア競技大会に関する部分に誤りがあったため、訂正いたしました。)
文字起こし|今田和也、野村拓也、平石もも
写真|イタイミナコ
資料提供|大槻オサム、丹田和宏、丹田春果
会場協力|本と自由
令和4年度 文化庁 大学における文化芸術推進事業
事業名「街に介入する芸術、その公共性の議論を促すメディエーター養成プラットフォーム」
主催|広島市立大学 HACH (Hiroshima Arts&City Hive/広島芸術都市ハイヴ)
運営|ひろしまアートシーン運営事務局(gallery G内)