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【インタビュー・ひろしまブンカDIG】第3回 : 石丸良道さん

 

【ひろしまブンカDIG】
広島市内にはかつてどんなシーンがあったのか。可視化されにくかった時代の、文化シーンの場を作り、支え、生み出してきた人たちへのインタビューシリーズ。広島にもこんなシーンがあった、というのを再発見していきます。

第3回:石丸良道(いしまる・よしみち)さん
1951年広島市生まれ。九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)音響設計学科中退。1972 年から1976 年までスペインに滞在し、帰国後は、絵を描きながら元祖フリーターとなり、舞台美術、空間演出など、さまざまな仕事をこなす。音楽イベント、アートイベント、祭り、芸術祭等の企画プロデュース及びディレクション。また、様々な「まちづくり市民活動」におけるコーディネートを行う。趣味はフルートや南米アンデス地方のアシ笛・ケーナの演奏。特定非営利活動法人セトラひろしま 副理事長、広島市中央部商店街振興組合連合会 事務局長、並木通り商店街振興組合 事務局長、RIN STUDIO プロデューサー、アリスガーデンパフォーマンス広場事業コーディネーター、祭り「えんこうさん」企画コーディネーター、広島伝芸コーディネーター、「大イノコ祭りを支える市民の会」会員。

インタビュアー)平石もも(92project/ひろしまアートシーン)
インタビュー補助)榊記彌栄(箏・十七絃箏奏者/NPO法人セトラひろしま理事)
松波静香(galleryG/ひろしまアートシーン)

石丸良道さんは広島市内の文化イベントでは名前が出ない時はないのではないか?と思う時があります。美術、音楽、イベントの企画やプロデュースの幅は広く、様々なジャンルの人が知る「石丸さん」は、70年代後半から現在まで広島の文化シーンを支え、仕掛け続けています。石丸さんに関わったアーティストは数多くいるのではないでしょうか。その長いキャリアでどんなことがあったのか、改めて振り返っていただくこととなりましたが、あまりに膨大で概要を伺うだけで取材時間があっという間に過ぎて行ったのでした。石丸さんが活動の根底に思う広島像とはどんなものでしょうか。

(取材日:2023.1.25)

文化芸術・コミュニティ・祭をつくる
目次

・モラトリアム時代から街へ 1970-1989
・コミュニティを作ることと、CO-eX 1990年代-
・アートプロジェクトから、現在へ 1996-

モラトリアム時代から街へ 1970-1989
「画廊とか箱じゃなくて街で何かやりたいねって。」

平石)石丸さんのこれまでの活動をきちんと聞いたことがありませんでした。70、80年代はフリーでのアートマネージメントをする人が少なかった頃に、ご自身も作家活動しながらイベントの裏方も数多い、というのがすごく面白いなと思って今回お話をお伺いしたいと思います。

プロフィールを頂いたんですけども、元々は美術ではなく、音楽の方だったという。

石丸)高校が基町(広島市立基町高等学校。1966年入学)で、吹奏楽部だったんですよ。当時はビートルズが中学校の一番終わり頃に流行って。音楽って面白いな、って高校に入ったらすぐ吹奏楽やって。そこからもうクラシックにいっちゃって、モーツァルトオタクになって。純音楽茶房ムシカ(1946-2020。猿猴橋に創立したが当時は胡町に店舗があった時代)っていうところがあって、ムシカの三階にいる人を「三階族」って言うんですけど、レコードを聴くところがあって、そこにずーっといたんです。何もしゃべらないけどずっと聴いてて(笑)。

それで一浪して…あの頃は九州芸術工科大学って言うんですけど、そこに音響設計学科(芸術工学部)で受かったから、福岡に行ったんです。今は九州大学の芸術工学部だけど。それで音響やってたら、ちょうど1970年になって。大阪万博では鉄鋼館という現代音楽を聞かせるホールがあったんです。僕はオーケストラに入っていたけど現代音楽の同好会もやってて。東京でも草月会館でパフォーマンスとか現代音楽のイベントがあったら夜行急行で行ってたりしてたの。

70年っていったら当然そのちょっと前から学生運動とかあったわけです。だけど僕はそういうところがちょっとずれてて、みんなからノンポリだって言われて(笑)。

それで行き詰まったかな?元々音楽をやりたかったと言っても音楽大学に行くノウハウもないし。それに電子音楽をやりたかった。当時初めてデジタルなMOOG(モーグ)シンセサイザーとかそういうのが出だしたんで、そういうようなことをやろうかなと思ったらあまりにも数学ができなくて。

で、どうしようもなくなってどっか追い出されるようにスペインに行った。当時バックパッカーも流行ってたから、それでヨーロッパまわって…。

平石)スペインに長く滞在していたのではなく転々とされていたんですか?

石丸)最初はシベリア鉄道で行ってまわっていた。当時はまだソ連だったんで、ソ連を通ってウィーンに入って、ヨーロッパまわって、それから最終的にはスペインに行こうと思ってたんですよ。なぜかって言ったら僕、パリとかロンドンよりちょっと周縁のほうがいい。面白い鬼才が出るじゃない、スペインってのは。ピカソとかダリとか、ゴヤとか。もちろんオーソドックスなベラスケスだっているんだけど、そういうのが好きでスペインに行こうと思ってた。比較的安かったから。当時はまだフランコが独裁政権の末期だったときで、やばいこともあったんだけど。僕が5年間いた間にフランコが死んで、新しい今の王政が復古をしたんです。それで議会もできて、憲法もできて、新しい体制になったという時代ですね。

僕はマドリードの中心部に下宿してたけど、窓の外をそういうような歴史が通っていたような感じで面白かったですよ(笑)。近くに広場もあるし、そこ行ってずっとボケーっとして立ってて。それまで情報過多でいろいろなことやってたけど、スペインでは情報がシャットアウトされたのね。

暇だからそこで絵でも描いてみようかっていうことで、独学で。ヌードのデッサンのクラブみたいなのがあるんですよ。そこに毎日行って描いてた。

平石)語学は勉強されてから行かれてたんですか。

石丸)スペイン語はちらっとかじったけど、別に専門でもないし、現地で覚えた。僕、喋るの下手だから。語学的な才能がないので、そんなに上手くならんかったけど。下宿がスペイン人の学生、マドリード大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)の数学とかやってる学生と部屋で一緒だったから、何もしゃべらんけどなんとなく昼は一緒に、ご飯の安いレストランに入ったりして。現代音楽とか、一応コンセルヴァトワール(音楽院)はあって、講義に一緒に行ったりして。彼らからは、ジャズを教えてもらったり。

要はモラトリアム時代。その時期って多分、社会的な素養を身につける時期ですよね。ところがスペインに閉じこもっていたから、日本に帰ってみたら全く使い物にならなくて、帰国当日、東京駅で自衛隊に勧誘されたし(笑)​​

平石)戻ってきたのは20代半ばぐらいですね?

石丸)26歳で帰ってきました。それまでは仕送りみたいなものがあったので、それからは自分で食わにゃいけんからいろんなバイトをし始めます。絵を描きながらだけど、でも所詮独学ですから。

何か下手な絵を描いてましたよ。だけどその頃、福井英二さん(現在のガタロ。詩画人)と知り合って、公園でガタロの絵を展示した。

平石)ガタロさんの「野晒し展」は石丸さんも関わってらっしゃったんですか?


(※1回目の「野晒し展」は83年と推察される。当時、公園に作品を展示する野晒し展を広島市内の複数の公園で展開していた。)

石丸)そうそう、「野晒し展」。僕、「野晒し展」のチラシなんか作ったりなんかもしてました。僕はそこにガタロ、当時の福井英二論を書いたんだよ。

野晒し展チラシ。年代不明。

平石)ガタロさんとは展示や絵を通して知り合ったんですか?

石丸)そのころ遊子館画廊(1975-1981年に中区鉄砲町にあったギャラリー。貸画廊がメイン)ってのがあって、ちょうどそこで彼が展示をやってて。行ったら一点しかないんですよ。

(※ガタロは福井英二名義で1977年3月、12月、1979年6月に遊子館画廊で個展を開催。どの展示を指すのかは不明。)

しかも汚げな、腹の絵なんですよ。何か膿んでるような。それは面白いなと思って。彼のお兄さんがスペインにおった、というようなこともあったし。

あの頃、僕らの一つ上の世代がちょうど現代美術館が出来るっていうので、広島のアートを引っ張ってた。その代表格が鈴木たかしさん。ミニマリズム系が主流だったかな、あのころは。その系の人たちがかっこよくやってた。それを見ながら、ああ現代美術ってこうなんだ、って思ってましたね。いろんな動きがあったんですね。

それを横目に見ながら。僕らに近いのは桑原眞知子さんとかに「画廊とか箱じゃなくて街で何かやりたいね」って。あの頃、”猫も杓子もポストモダン”、キース・ヘリングとかグラフィティも流行ったり、パフォーマンスっていう言葉も定着しだした。​​

それでアートは街と関わった方が面白いんじゃない?しかも表現というのは多様でいいじゃないか、っていうことなんですよね。現代美術の美術史の文脈みたいなものにとらわれずにね、いい加減な感じだったんです。漠然とそこしかなかったよね、だって新しいスタイルって60年代とか70年代にほぼもうで出尽くされていて。何をやっても「もうやってる」って美術界的にはほぼ繰り返しばっかりだったと思ったから。​​

平石)業界みたいなものがしっかりしてしまっている。

石丸)行き先がないわけだから、何すればいいの?っていう状況。それが70年や80年代半ばにかけての流れだったんじゃないかなと思いますね。一方で、やっぱりそういう現代美術をする人もいる。一方では団体展系っていうか、それは当然あったんですよ。

平石)遊子館画廊の展示データによれば、石丸さんが80年と81年に3人展を2回されてる記録がありました。その頃はどういう作品を作られてらっしゃいましたか?

石丸)絵です。油絵じゃないかな?とにかく素人だから。ちょっと表現主義的な絵ですよね。

平石)89年の新聞記事で取材も受けられていますけど、壁画も描いてらっしゃっていたんですね。

石丸)80年代にやっぱり僕は壁画とか…仲間といろいろなところで描きました。

平石)それはやはり「街と関わる」というところから?

石丸)そうですね、そのほうが面白いし。できるだけ。槇原くん(槇原慶喜/画家)とかなんやかんやで壁画なんか一緒にやったことがある。

平石)壁画を描く場所はどうやって見つけていましたか?

石丸)例えば店がちょっと描いてくれとか。それとかこれはNTTクレドができる前の工事現場でフェンスとかにね。あと酒屋さんが描いてくれとか。シャッターに描いてくれとかそういうのがありました。

平石)壁画を描く際は何人かの分業になったりすると思うんですけど誰が描く絵を決めていたんですか?

石丸)分けて描くっていうパターン。一緒に描くときは…誰かが主体になって手伝うっていう、そういう感じかな。

グラフィティが流行ったからね。80年代はそういう感じで。
86年あたりから仲間でみんな集まって、街で何かいろいろアートアクションやろうよっていうんで、「ヒロシマ・アートウィーク」っていうのを3年間やった。街のいたるところで、飲食店、アパレル系の店、ギャラリー、ファッションビルのロビーとか、いろんな所で、音楽、演劇、映画、建築、デザイン、パフォーマンス…アートもあらゆるジャンル、そのときは団体展系の人も団体を超えて集まって展覧会もやりましたよ、県民文化センターで。当時パルコなんか工事中で工事フェンスで壁画コンペやったり、YMCAの壁画のコンペやったり、色んなことやった。それから袋町公園もあのときはまだ整備前だった。そこでみんなで泊まり込んでいろんなインスタレーションをして。インスタレーションという言葉がはやりだした頃だったね。​​

もちろん意識したのは「ヒロシマ」っていうのがあって、8月の6日前後にやっていた。「ヒロシマ」っていう言葉、これをずっと考えることになる。当然、僕は広島に生まれてるからね。

広島って、平和平和ってあまりにも多くのその言葉が飛び交うから、僕はつい他人事のようにその言葉に違和感を感じることがある。何となく空々しい、そんな予定調和的な呟きからは何も生まれんよな、っていう感じをずうっと思っていた。平和ってその辺の日常の些細な事でも、多少いざこざがあるかも知れないけど、白黒でなくてグレー、やっぱり寛容に、それぞれを認め合って生きること、それを人間の条件として受け入れる力を持つことじゃないか、その決意をもたらす根源の理由そのもの、それを「ヒロシマ」が言ってることじゃないのか、「ヒロシマ」って何?

スペインにいた頃、僕は広島出身ということで、それを突きつけられますよね。思い出すのはスペインにおった頃、一度風景画を描きに出た。そしたら地平線が見えて、岩だけで他に何もない。で、僕は全然描けないわけですよ。その風景を日本人の僕が背追い込んで描けるわけないと思ったんです。「あんたって何よ」って聞かれるし、僕自身に問いかける。そして日本って何なのかって、広島に帰ってきても、広島って、そしてヒロシマって、日本って、一体何なんだっていうことをずっと悩んで考えるようになるんです。


1982年にトマホークや、中距離核戦力のヨーロッパ配備の問題があって、広島に20万人集まったことがあるんですよ(1982/3/21「平和のためのヒロシマ行動」)。それはフォルクローレの楽団で参加した。フォルクローレってのはアンデスの民謡なんですけど。

僕が影響を受けた作曲家・ピアニストで、高橋悠治っていう人がいます、今もまだまだ現役ですが。悠治さんは、70年代初め僕がスペインに行った当時、現代音楽界のバイバリのスターだったわけですよ。当時最先端の確率を使ったコンピュータミュージックなんかを作ってたんだけど、僕が5年間スペインにおって帰ってきて、悠治さん、今はどんな活動をしているのかと調べたら、〈水牛楽団〉だったんです。要はプロテストソングや民謡なんか集めて楽団を作ってそれをやってた。

平石)がらっと方向が変わってたんですね。

​​石丸)で、その真似をしてみようかないう感じで。仲間と一緒に作ったのが〈サンポーニャ〉っていう楽団だったんです。反核集会に行ってた時期ですね。その時に野晒し展のオマージュで〈サンポーニャ〉がパフォーマンスなんかしたわけ。

その頃から街と表現の問題みたいなのを意識するようになり、それと「ヒロシマ」という問題もあるし。僕にとってそれが「ヒロシマ・アートウィーク」っていう流れになった。

アートウィークの代表は劇団〈十八米四十糎〉をやってた、芝居も書く光藤(光藤博明)くん。いろんな人が集まってた…いろんなジャンルのね。時にはゲストも来るようなこともあった。例えば具体美術の嶋本昭三さん。嶋本さんが主催してメディアアート、インターネットもないわけだから、あの頃メディアだったら手紙だったわけね、国際メールアート展とかもしましたね。

平石)最初の立ち上げの時はアートウィークの実行委員は何人ぐらいいたんですか?

石丸)実行委員はね、20人はいたと思う。

平石)最初からかなりたくさんいらっしゃってたんですね。

石丸)そうですね。広島リアルジャズ集団をやっていた鈴木恒一郎さんもいたし。

松波 )桑原眞知子さんや、まつだなるさんもですか?

石丸)そうです。当然重要なメンバーだし。

でも、さっきも言ったように、それを3年やってちょっと挫折感があった。あまりにもやっぱりカタカナの「ヒロシマ」っていうのは大きすぎるんですよね。抱えきれん、ということで疲れ果ててしまう。

でもアートウィークの余韻というか、せっかく作ったつながりが活かせないかなと、MICHIKO FINE ART(殿敷侃の従姉妹にあたる殿敷路子がオーナーをつとめたギャラリー。1984-1993)にみんな集まりよったわけ。その流れで、その頃バブルにいく途中だったこともあり何かプロジェクトをやろうって。

絵の島って、海水浴場知ってる?そこを夏借り切って何かやろうかって。海水浴場だから、そこのいろんなイベントを請け負いましょうと。「不思議な島宇宙 伝説の都バルナス IN ENOSHIMA」っていうのをやった。

(※絵の島は海水浴場としては1990年に閉場し、現在は許可のない上陸は不可となっている)

まず「伝説の都バルナス」っていうテキストを作った。幸井文夫さんっていう物書きがいて、「ちょっと書いてよ」って頼んだの。そしたらわけのわからぬテキストができたわけですよ。その「バルナス」をもとに、いろんな種族がおって、いろんな戦争が起こって、っていうのがあって。
それを解釈して、いろんな企画をするっていう。メタテキストと派生する個々の物語りという関係かな。ところで現場の方では、まずはそこにあったバンガローを解体するところから始まり、その木材を使ってインスタレーション作品や祭壇を作ったり、つまり祭り場(まつりば)を作ったり。で、そう、あそこ洞窟があったんで、そこを世界祝祭劇場と呼ぶことにして(笑)

平石)新しい国を作るような話ですね。

石丸)いろんなパフォーマンスを入れ込んでた。もちろんランドアートっていうか、それも周囲は海だから。宮田洋子さんとか、ロープワークの岸田龍平さんとかみんな関わっていわゆる「自然」を問う、「自然」なるものと関わった活動あるいは作業だった。​​

その中で面白かったことに、そこには漁とかで生業を立てている土地の人がいるんですよね。女性が白い長い布を使って海に入ってパフォーマンスしたんです。そしたら激怒して、地の人が。「ここをなんだと思ってるんだ。」と。近くの宮島、白い蛇が神様ですよね、怒るよ。よそ者の僕らが甘かったんだなというようなことも経験したよね。

ちょうどその頃、筝演奏家・榊記彌栄さんの演奏に出会っていた。「火垂る(ホタル)」っていうすごく暗い曲があり、その曲を洞窟でやってもらいたいと思った。それで榊さんを引き入れ、演奏を導入する儀式をした。削岩機使ったり、トタンに百合を置いて灯油で燃やしたり、たらいの中に鯉が出てきたり。

平石)全然想像がつかないんですけど(笑)。

石丸 )そこで瀬戸内海汽船の浴衣を着たお姉さんが線香花火をして音楽が始まるというような。それを洞窟の中でやったの。

瀬戸内海汽船さんが海水浴場を経営する予算があって、それを使いんさいと。だけど、準備・設営・実施運営・撤去と作業は長く続くし、予算も足らない、みんなほとんど手弁当。船がなくなると泊まらないとしょうがないわけだし、それなりに面白かったけどね笑。

松波)「不思議な島宇宙 伝説の都バルナス IN ENOSHIMA」のプロジェクトは1回だけですか。

石丸)1回。1回でもう呆れ果てられて(笑)。

松波)どれぐらいの期間開催されてましたか?

石丸)1ヶ月半。その前後も泊まり込んだ。

(※「不思議な島宇宙 伝説の都バルナス IN ENOSHIMA」は1989/7/15(土)-8/20(日)に開催。)

平石 )瀬戸芸よりも早くそういうことを地の人たちが立ち上げていたのを全く知りませんでした。バルナスのお話は元々基町の珈琲屋さんから知人が聞いたというので興味を持ったのですが、なかなか見えてこなくて。

石丸)山本満晴くん(美術作家。当時は広島や東京で舞台芸術も行う)でしょ。満晴くんには舞台装置なんかも頼んだりした。公共のデザインシンポジウムをそれこそ旧国泰寺愛宕池(広島市中区小町)でやったことがあるけど、そのときのインスタレーションなんかも彼がやった。

バルナスは、「ヒロシマ・アートウィーク」の流れだから。演劇パフォーマンス系は光藤博明くんが担当して、舞踊系は池澤嘉信さんなんかも関わってた。僕はいわゆる企画づくりを担当して、メタのテキストから解釈した各企画のコンセプトを渡すわけ、それをアーティストが解釈して作品を作っていった。アーティストは自前、県外のゲストはいなかったね、広島の人が多い。

平石)お客さんは一般の人がその島に遊びに来たりされてたんですか?。

石丸)海水浴場期間中に祝祭日があり、祝祭的な野外ページェントが催される日がある。それは告知したけど、あとは海水浴場だから、常時人が来ている。

それに祝祭日とは別に「世界祝祭劇場」つまり洞窟劇場での企画シリーズがあり、いろんなパフォーマンスが行われた。ものすごくキャッチーですよ。洞窟に蛍光塗料をばあっと塗ってブラックライト当てたら絵が浮かび上がったりとか面白いでしょ。

平石)大丈夫なんですかそれは(笑)

石丸)当時はMICHIKO FINE ARTさんが中心にいたときの話だね。

平石)殿敷侃さんは繋がりがありましたか?

石丸)あの人は別格。現代美術の王道。僕らみたいなのはキッチュだから。僕らなんて、雑音ですよ(笑)。

僕はMICHIKO FINE ARTさんで個展をやったし。その流れから90年代に大イノコ祭りができていった元にもなってるよね。

コミュニティを作ることと、Co-eX 1990年代
「アートだけ考えてたら全然進まないんですよね。価値観がぶつかることで、コミュニティのことを考えるようになるんです。」

石丸)その時はもう音楽もやめちゃってるんですね。自分の名前で発表することはもうなくなって、いろんなことで裏方をやってたわけ。

広島にはコミュニティがあるんだろうか、つまり「祭りがあるんだろうか。」それがテーマ。
イベントでパーっとやるのもいいんだけど、それが一体何なのっていう。この社会にとってどういう意味があって、どういうことなんだろうかということはいまだに考えてます。ジャンルは何でもいいんですよ。今やっているのもエリアマネジメントだけど同じですね。

石丸)並木通りができたりするときに路上でパフォーマンスしてたとか。

(※広島市中区三川町・新天地・袋町にある通り。若者の街として知られるようになる。1987年に電線が電線類地中化によって、電柱が消え、彫刻やモニュメントなどが設置されるなど、現在の形に整備されているのでこの頃か)

ドラム缶たたきあげて警察が来たね。ヨーロッパなんか、街中ではパフォーマンスが当たり前で、やっぱりそれが魅力的だったわけ。なんでこういうのが広島でないん、っていうことで。そして街で活動するうちに商店街などと繋がりができてきた。

実際並木通りの道路再整備完成を記念した路上イベント、そのときも当時のアーティストはみんな関わってますね。この辺からは、今度は公共空間における人々のアクティビティーの問題になる。アートがいわゆる公園とか道路にどう浸透し風景の一部となるのか。

ところで並木通りは、加藤の親父(加藤新)っていう人が今の形にした。

平石)プランニング的なところですか。

石丸)プランニングとお金を引っ張ること、それから政治的な工作と、身上を潰してやった人。剛毅な人よね。アパレルの店主で、アート好きなんよ。鈴木たかしさんとペア組んで。

だから並木通りやアリスガーデンに鈴木たかしさんのモニュメントがあるでしょ。並木通りの基本設計は鈴木さん。ベンチとか、フットライトも。

話は飛ぶけど、いつも問題となるのが街と街に置かれたアート作品との関係。
アート側からは「文化レベルを高めろ」とか「文化を守らにゃいけん」と、文化の価値を言う。じゃあ誰が面倒見るん?色の塗り替えとかメンテナンスするのを誰かがやらないといけない。もし作品が地域コミュニティーにとって大切じゃないとみなされ、作家や作品が支持されない場合、捨て去られる運命となる。いくら文化云々って言ったって、そこが問題。アートと社会の関係ってのは複雑。
文化って結局コミュニティーの問題となる。僕も鈴木さんの作品はいいと思うんだけど、あれ面倒くさいから取った方がいいよね、っていう人もいる、その辺はものすごく問題。
考えてみれば広島にはいろんな慰霊碑がある。それをちゃんと面倒見る人がいる、手入れしたり祈ったり儀式したり。そういうコトの「形」がきちんとコミュニティで受け継がれてるわけ。僕は両方の立場がわかるからいつも板挟み。

街場では、アートだけ考えてたら全然進まないんですよね。当然いろんな価値観とぶつかるわけです。価値観がぶつかることからコミュニティのことを考えるようになったんです。という中で実験的にできたのが「イノコフェスタ」(1990年11月)。広島の伝統的な亥の子祭を現代的に解釈した新しい祭りで、そこにコミュニティができるかどうかという実験だったんだけど、6年ぐらいで潰れちゃったわけ。コミュニティができなかったわけね。要は補助金や商店街のお金がなくなったらもう駄目だと。その時はできたように思ったコミュニティは幻影であり、本当の祭りでもなかったと。

その後「現代においてコミュニティなんてないよね」って言うものの、数寄者が集まって活動するNPOという仕組みがあるらしいから、自分たちもそういうの作ってみようか。「商店街と市民が集まって街を面白くしようよ」っていうNPOを作った。それがNPO法人セトラひろしま。

アリスガーデンでイベントやったり、掃除や、環境活動をしたり、子育てを応援したり、街でいろんなことをやろうという人たちが一緒になって、20年間ぐらい色々やってる。榊さんも最初からのメンバー。

その活動の合間、僕は若い人に、あの消え去った幻の「イノコフェスタ」や、昔の祭りのことを話したりした。アリスガーデンで街カルチャーイベントを一緒にやっていた若い人らが「それやりましょうよ」って言ったんですよ。しかも、たまたまその時補助金が出たんです。ということで2013年、祭りが復活した。それを2年やって、もう補助金が出ないんだけどどうする?って言ったら「やりましょう。自分らでできる仕組みを考えますから。」と、彼らはお金を集める仕組みを考えてくれて、それからずっと今も続いているのが「大イノコ祭り」。そのメンバーが緩いコミュニティの核。そこから人々の繋がりが生まれる。彼らは地元の人を巻き込み、地縁コミュニティが元気づく。今は地の人も一緒になって、祭りが紐帯となり、縦横の人の繋がり、コミュニティになりつつある。

平石)私はその復活した2回目の時にアルバイトに入らせていただいたんです。土地の昔からの方もいれば、スタッフで仕切っていたのは同年代の人たちが多くて、道路にファッションステージ作ったりとかもしてたし、ナレーションも全部やったりしてたのを見て、ジャンルを横断して協力し合ってる部分が、これぞ街のイベントだな、という感じがしました。根っこで石丸さんがそこの繋ぎ手になってくださっていたのですね。

そして、現在の肩書になっている他の活動もお伺いしたいです。RINスタジオのプロデューサーというのはどういう活動でしょうか?

石丸)榊さんの活動スタジオの名前なんです。

榊さんは琴の奏者。さっき言ったように、日本のアイデンティティーを考えざるを得なかった僕は、軸として伝統に近づきたかった。そこに榊さんという人がいた。彼女は意外と自由なの。

いろんな他のジャンルと臆せずセッションするし、流れ的にはちょうどよかった。一緒にいろんなプロジェクトをやったし、一時期「玉堂プロジェクト」 と称して多ジャンルとのセッションもした。

※玉堂プロジェクトは、箏演奏家・榊記彌栄と、さまざまなジャンルの表現者がライブを通してジョイントすることにより、江戸後期に生きた天才画家であり、類い稀なる琴士でもあった浦上玉堂が、時を超えて私たちに投げかける“眼差し”を、今日の表現として再構成し、芸術表現の可能性とその存り様を探っていこうとするもの。(アート、映像、建築等、他の表現ジャンルとのコラボレーション):鷺ポイエーシス・オープニングレビュー「玉堂プロジェクト」(1998年/三原市・佐木島コテージ)、「STiLL LiFE」(1999年/広島市・宮森洋一郎建築設計室)、「龍の鱗」(2000年/広島市・アステールプラザ多目的スタジオ)、Music Theater“FALA”(2005年8月/旧日本銀行広島支店)、MOTO-KAMI FESTA“慰霊のためのMusic Ceremony”(2009年8月/Event Café Samalo-パセーラ)​​

こういった活動の基本としているスタイルがあって、それが僕が言うところの「Co-eX」って言う概念。Co-は「一緒にする」、eXっていうのはいろんな表現がある、「出ていく exit」とか、「爆発する explode」とか「表現する express」とか「さらけ出す expose」とか。僕はそれを広島における文化スタイルの基軸と考えている。

いわゆる国際平和文化都市という予定調和的な概念は、逆に僕はヒロシマ的じゃないと思う。ヒロシマが言いたいことが上滑りしている、先に言った今までくり返された、みんなひとつとなって平和なる未来を!その押し付けがましさ…に対する違和感。

地球上である場を共有するんだけど、そこでそれぞれが固有の表現をぶつけ合う。表現スタイルとしてCo-eXが、広島がこれから発信すべき文化スタイルじゃないかと僕は個人的にずっと思ってる。つまり世の中にはいろんな人がいる。今でいう多様性ですよね。そこで出自の違う表現が出会いある共働行為としてのセッションを体験することで、なんかできちゃった。そういうお祭り場としての広島、それが広島スタイルの文化だと。

だからCo-eXっていうのは上からの視点がないんですよ。つまり演出家とか監督っていう視点が全くない、それぞれが表現を持ち寄る。例えば、榊さんはモスクワでのエスノジャズフェスティバルに行ったけど、各国からそれぞれのアーティストが集まって、その場でセッションをした。

榊)「やって」ってなるのよ(笑)。


石丸)ぶっつけ本番、その一期一会のネゴシエーションの姿ですよ、それは練習して一つの作品を仕上げる!とかそういうようなもんじゃないと思うのです。そういうことをやってたら、お金も時間もかかるだろうし、広島の地においては合理的?でヒロシマらしい方法、それこそ広島スタイル、それがCo-eXじゃないかと思う。

もっとも今までこのスタイルでやったいろんなパフォーマンスステージは、ボロクソに言われましたがね。演出的意図がないとか出鱈目とか。

以前RIN STUDIO企画でやった、メスカリア「トヨのはらっぱ」ていうのもそうだった。それには当時広島市立大学の丸橋光生くん(美術作家)も出てたんだけど。あのときは面白い人たちが集まったわけよ。福本つとむくん(飲食店マスター/ニューオリンズジャズバンド/ちんどん屋など)とか、当時やってた「大塚芸能」の集団も出たし、美音異星人さん(パフォーマンスアーティスト)も出たし、ダンスパフォーマーの國本文平くんもいたし。

平石)異種格闘技のような雰囲気ですね。

石丸)ある種の図形楽譜みたいなガイドライン。オリジナルのコンセプトテキストは榊さんと僕で考えた。それに基づいていろんな解釈をそれぞれ考えぶつけ合うわけ。なんとなくできちゃった。最後にソーランも出てきちゃった。
ソーランがなぜって?当時アリスガーデンが荒れてたんだよね。そういう子をソーランで更生、いやエンパワーメントっていうか、そういう流れでやってもらった。テキストとかガイドライン(案内書)をそれぞれ解釈してセリフは自分で作ってもらった。​​

平石)いわゆるコンセプトのようなストーリーが元々あるということですか?

榊)シナリオに役柄もあって、それに演者に合うようにしてあるんです。例えば、お姫様はダンスの人とか。

石丸)「トヨのはらっぱ」のトヨっていうのはいわゆる卑弥呼の姪のことです。それをテーマにするので、「グラウンド・ゼロ」としての「はらっぱ」、国作りの話とヒロシマを掛け合わせた話。​​

平石)パフォーマーなり出演者が解釈して、表現をその日にぶつけるっていう形ですね。

榊)最初はみんなもわかんないからブツブツ言ってたけど、最後は私たちにもわかんない面白いものになったと思う。

石丸)そういうパターンをもう何本かやっていたね。榊さんは〈安佐の南座〉っていうのを作ったし。

榊)作らされたんよ(笑)

石丸)安佐の南座は区民文化センターで文化祭を任されたわけよね。

榊)安佐南区のいろんな人たちと何かやってくれって言われて、どうやっていいかわからないからまず一座にしよう、って。「羽衣伝説」をベースにして。

石丸)その流れから「トヨのはらっぱ」もきてるのかな。

榊)和の音楽って結構いじれるんですよ。

石丸)それに意外といろんなジャンルが合う。こことここのジャンルはもう絶対やらんとかは、和の音が中心になると意外と等距離になる。だから集まりやすい。
まあ、「トヨのはらっぱ」はキッチュですよ。

平石)今はそういう作り方はされてますか?

石丸)演劇が入った物語仕立てはないけど、Co-eXはずっと続けてて、今も音楽の部分では野村彰浩くん(キーボーディスト)のやってるLaTICAといつもコラボしていて、この間は愛宕池のイベント(でんでけあたご池)をやったし、今度は西国街道のイベントでもやります。8月6日のとうろう流しの「慰霊の音楽」もそう。

僕たちの間ではCo-eXはもう定着してる。今年は平和大通りで「Akari Matsuri」をやってるけど、これはベテラン抜きで若者がやってる。​​

平石)(前回インタビューの)伊藤敏さんとは繋がりがあったとも伺いました。

石丸)あのね、3バカトリオって言われてましたね。敏さんのいた会社の仕事を僕がやったことあるんですよ。有限会社ストーンスタジオでね。その時直接的に知り合ったんですけど、それからもう1人デザイナーで本多主幸っていう人がいて、もう死んじゃったんだけど。

本多さんは、芸北の方でアートプロジェクトを企画したことがある。(ラルジャン(L’ARGENT)1988年5月)。自然の中でね。彼はアートウィークも関わってて、重要メンバーだったんですけど、ディレッタントていうか、いろんなジャンルの知識が豊富な人で、いろんな話をしよったら、面白い人がいるっていうんで、話が合ったんでしょうね、敏さんと。3人でしょっちゅう何かつるんでいろんなこと話をしよったことがある。コンペがあったら何か出してみようじゃないか、地域通貨みたいなのを考えてみようじゃないか、とか何かあの当時そういうことを考えてね。

松波)ラルジャンに大いのこ祭りの原形になった作品があるとも聞きました。

石丸)そうそう。あれは本多さんのプロデュースの作品。自然の中のあれ。参加した兄(石丸勝三)の作品から生まれたね。

アートプロジェクトから、現在へ 1996-
「未来は一つに収斂しない」

平石)アート関係だと、現在は一般社団法人HAP代表の木村成代さんとも長いこと仕事をされていますね。

※以下、石丸さんが関わっていたHAPとは木村成代が個人運営していたギャラリー「Art Space HAP」(1995-2013)としての話となる。

石丸)あれはもう腐れ縁ですね。HAPという言葉は僕が作ったんです。

松波)今、初めて知りました(笑)

石丸)最初は「ヒロシマアートプロデュース」ね。1995年に最初のこけら落とし企画のキュレーションを2人でした。

平石)どんな展示だったんでしょうか?

石丸)忘れたんだよね。ASH展、「盲目」「夢幻」「終着」の3回の「浜辺」シリーズだったかな、その中には村上隆のドローイングの展示もあった

松波)バトー・ムーシュ(木村成代が1989年にオープンさせたギャラリー)じゃなくて、その後名前を新たにして開いた鶴見町のArt space HAPの最初の展示のことですね。

ASH展DM 1995年

石丸)ASHっていうのは灰であるし、「生命の木」という意味。ASH展のコンセプトは僕が作り、その時のコンセプトが「未来は一つに収斂しない」です。

「ヒロシマ」っていうのはどうしても一つの未来を予想させる、終末とか、爆発っていう、またそれを回避するため、一つの価値観でガチガチに管理された未来の世界が待っている。また核と言うヒロシマの主題を並走するように、生命の操作っていうのも、生も死も世界は一つの繭に閉じられるんじゃないか、っていう恐怖。それが嫌で、未来は、生命の多様な可能性としてあるべきだ、だから一つに収斂しないと。

それがヒロシマが訴えるべきメッセージだと思った。それがCo-eXとか多様性っていうものに繋がった。広島でこそ、この意味で読み替えた「ヒロシマ」を訴えなきゃ。これは世界のあらゆる問題に関わってくるということも含めて。

平石 )木村さんと会ったのはバトー・ムーシュの頃だったんでしょうか?

石丸 )バトーの後半ね。その後にバトーがなくなって。それからArt space HAPができるまでの期間一緒に仕事してたの、(有)ストーンスタジオで。

平石)ストーンスタジオは石丸勝三さん(石丸良道さんの実兄)の会社ですよね。

石丸)うん、石の造形スタジオね。そこで木村さんと僕は何かいろんな商業施設に行って、イベント仕掛けたり展示したり。そういうことやってた。

平石)石を扱ってたわけではなかったのですね。

石丸 )僕も時々現場監督で現場に行って何か仕事するけど、実際石を扱うの兄貴。他の仕事見つけて木村さんとやってた。そういうことではいろいろ腐れ縁(笑)

平石)その中で、2007年岡本太郎明日の神話誘致のプロジェクトがありますね。どういう経緯でこの話があったのか伺ってみたいんですけど。
(※参考:竹澤 雄三による岡本太郎『明日の神話』広島誘致顛末記(一九五四〜二〇〇九) <特別報告>が詳しい。https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00031394 )

石丸 )これは木村さんの方がいいと思う。彼女がこの話持ってきて、絶対(広島に)欲しいよね、っていうんで僕はみんなを集めた。市とか放送局とか、いろいろ折衝して、山本一隆さん(当時、中国新聞副社長)が運営委員長になってやってくれて、渋谷に誘致が決まるギリギリまで戦ってくれた。戦ったと言ったらおかしいかもしれないけど。

榊)それに、岡本敏子さんもいらしたでしょ。
あの人が、「この作品は広島にあるべきだ」と言われて、木村さんが「それなら!」ということになって、それでみんなが動いたよね。

石丸 )僕にとって気に入ったのが、ヒロシマの悲惨を訴えるだけじゃなくて、あの作品、結構飛んでるでしょ。しゃれこうべなんか結構イケてる。要は生命の誇りと謳歌。これこそヒロシマのメッセージとして大切なんだよなっていうようなことを思って。「それがヒロシマよ~」と。

榊)ものすごい尊厳を感じた。しゃれこうべに。偉そうでしょ。《明日の神話》のしゃれこうべ。そう思わない?

石丸 )みんなそう思ってると思うよ。元気なんだよ、だから良い。今まで広島のイメージっつったらなんか悲惨な部分で、もううんざりだった。異質でしょう、だから。これはいいって言ってね。だって広島っていうのはずーっと小さい頃からそういうのばっかりだったから。

松波 )他にもエマニュエル・リヴァさん(2008/HIROSHIMA 1958「エマニュエル・リヴァの広島」展にて事務局長を務める)とか、こども環境学会(2009-10/こども環境学会2010年大会(広島)実行委員会事務局)と新藤兼人監督(2012/「新藤兼人 百年の軌跡」実行委員会 事務局)のこととかは、全部木村さんから誘われて…?

石丸)そういうことです。

松波)大きいことというか、いろんな人を巻き込むことはNPO法人セトラひろしまにお願いしますみたいなイメージが…(笑)。

平石)振れ幅があるけど、広島でお祭りやイベント組織の事務局長・事務局ってのは石丸さんの名前が入ってらっしゃることが多いんですけど、基本的に断ったりはされないんですね。

石丸 )面白かったらやります。

平石 )ちなみにセトラひろしまのセトラとはどういう由来なのですか。

石丸 )あれもええ加減なんですよ。エトセトラって意味と、セントラルエリア。というところで、いまだにやってます。

平石)やっぱりそこの名前には振り幅の広さが内包されている感じですね。

石丸 )アリスガーデンのイベント(アリスガーデン・パフォーマンス広場AH! http://www.cetra.jp/npo/ah.htm)も、ずっと月イチぐらいでやってるけど、アイドル呼んだりね、ダンスバトルやったりね

平石)本当に石丸さんのいわゆる「何でも」っていうのが感じられますね。
それから、基町の「自遊ひろば」という子どもの遊び場も作ってらっしゃるんですけど、あれも石丸さんが元々作られているのですか。

石丸 )そうですね。市から頼まれて。冒険遊び場っていうことで頼まれて、冒険遊び場のバックボーンを知らなくって、いろんなところを調べていって、まあ遊べばいいんだな、っていうところに至って、僕も遊んでる。毎回何が生まれるかな、というところに興味がある。

松波 )今どのあたりで遊んでるんですか。

石丸 )今スタジアムを工事してるじゃない?だから片隅のところでやっているんだけど、またそこも使えなくなるし、そこの整備もある。一時期使えないんだけど、ちゃんとスタジアムができた暁にはまた復活するように整備しますからねって言ってもらっている。

スタジアムできても林は残す。林はないと絶対ダメなんだよ。

もとまち自遊ひろば。石丸良道撮影。2022.12
もとまち自遊ひろば。石丸良道撮影。2022.6

平石)お子さん何人ぐらい来られてるんですか。

石丸 )今は全部コロナになって、予約してるから、少ないんだけど、この前日曜日は30人超えました。

松波)前は100人ぐらいいませんでしたっけ。

石丸)来るときあったよね。広いから。
見守るのは「遊援隊(ゆうえんたい)」って言うんだけど、それが5-6人はいて。父兄じゃないけど親御さんの見守り隊っていう人たちと、それから学生のボランティア。

平石)中区の広さというのか、石丸さんの活動幅の広さというのか、並木から駅前の広島駅の猿猴橋の方のイベント「えんこうさん」にも関わっていらっしゃいますよね。

石丸)猿猴橋も頼まれたんですね(笑)。あそこは今、地縁というか地域町内会が元気ないでしょ。で、再開発で新しいマンションができて、新しい住民が来る。いろんな事業体が入る。そこで地域の人たちを結びつけるものは一体なんなんだろうか?っていって。2016年に猿猴橋が復元(被爆70周年記念事業として、大正15年当時の姿に復元)されたし「新しい祭り、何かできないかね」っていうんで相談されて。大イノコ祭りの経験があったので、これはどうかなっていうことでやり始めたのが大間違いで、ずっとやらされてる(笑)。

榊 )結局ね、一番最後まで頑張るのが石丸さんなんだよね。やめないんだよね。

石丸)絶対に祭り衆っていうのが必要なわけ。その人たちが核になるんだけどそれがまだできてない。それが前提だったんで。今、エリアマネジメントとか企業町内会とかそういう動きは猿猴橋周辺もあるわけね。こっちの中央部エリアもそうだけど、今もすごく動いてる。

平石)祭に昔から関わってきている石丸さんからしたら、住んでる人たちのマインドが変わってきている、というのもあるのでしょうか。

石丸 )それはあるよね。大イノコ祭りも、よそ者が盛り上げる、というのがあるけど、でもやっぱり地元でしょ。地元の企業は、よそから働きに来てるから違うよ、と言われたらそうかもしれないけど、やっぱりその土地でみんなで仕事してるわけだから、時間を共有しとるじゃん。

本来エリアマネジメントっていうのは新しい仕組みだと思うんだけど、なかなかそこまで行っていない。それが問題。カミハチエリア(紙屋町・八丁堀地区)ではそういう動きがあって、いろんな事業体、企業があるんでしょ。その人たちが集まって盛んにワークショップをしてるけど、どうなっていくかなという感じ。(※官民連携のまちづくりプラットフォームとしてカミハチキテル-HEART OF HIROSHIMA-が活動中)

平石)80年代からお祭りを始められた頃っていうのは地元の企業がそういうものに積極的に出資されていたのですか?

石丸 )当時はちょっとラフな部分があったね。小さな会社も広告など出してくれた。90年代の特にバブル崩壊以後、世の中がものすごくシビアになったよね。文化にお金を出さない。それに管理社会っていうのかな、行政の規制。公共空間に関する規制も厳しくなった。前はええ加減だったんだ。ちょっと、何やかんややっても「まあしょうがないな」っていう。今は一つの企画を通すのでも、すごく労力がかかる。いちいち、資料を揃えて、警察は何回も行って、やっとできる。この前の「平和大通り″Akari Matsuri″灯りまつり」もそうだし。今、公共空間っていうのはなかなかパフォーマンスもできないし営業もできないけど、やっぱり文化のためとかいろんな価値っていうか、いろんなことが生じる場でもあるわけだよね。そういうものを全部潰してきていたから。

自遊ひろばもそうで、遊び場っていうのは、昔だったら近所の公園で遊べばいいんだけど、今はそういうこともできなくなって、というような話。

榊)石丸さんのところに相談に来た人の話を聞いて、彼が企画書を書いて、役所に行って、最後までやるんだよね。でも見えないよね(働きが)。
本人が言わないから言うんですけど、結局そういう地道なコツコツと最後まで誰にも知られずやってて。市や役所とか警察の絶大なる信頼があるの。「石丸さんがやるんなら」みたいな雰囲気なんですよ。

平石)それは継ぐ人が必要ですね。

石丸)今コロナで役所の担当も変わってる。毎年中央部で大きな祭りやってるじゃないですか。「ゆかたできん祭」とか、「えべっさん」とか、「とうろう流し」とか。そのノウハウがこの3年間のブランクで引き継がれてないわけ。で、1から説明せんにゃいけんし、本来はみんなで一緒にやろうっていうのが、あんたらが好きでやるんじゃけ、これやってねという立場になるわけだからギクシャクしてます。許可申請の窓口はいつも行くから仲は良いんだけど、上司の見方とかが影響する。

平石 )コロナがいろんなものを分断しちゃったんですね。

石丸)うん。色んなものが途切れちゃっていってる。

榊)それにしてもコロナ以外でも行政っていうのは担当が変わるじゃないですか。担当変わったときに白紙に戻るんよね。だから「初めまして」ってまたやらなきゃいけない。そういうのばっかりやってる。

石丸)年明けから僕が非常に危機感を持っているのは、広島市民球場跡地に施設ができる(ひろしまゲートパーク 2023年3月31日オープン。インタビューは2023年1月)でしょ。4月からオープンするけど、8月ぐらいまではもうイベントがいっぱいだっていうのね。

それはいいんですけど、例えばフラワーフェスティバルの時に誰かが予約してて使えないとかそういうことばっかり、あそこは、広島市の観光政策から考えると、すごい重要な戦略的な位置なのに、そういう重要なものに配慮しなくて、目先の企業イベントだけやっていいんですかって。誰も考えないわけ、戦略を。あそこでは年間を通して広島が発信すべき大切なこういうものはちゃんとやっていきましょうとか、例えば4年に1回は芸術祭やりましょう、とかそういうような未来への眼差しがいるでしょう。それがない。それが危機感。

まあ、うまくいけばいいんですけど。うまく使いきって。

松波)市民球場跡地の利用について考える会議もセトラさんを中心にしていた時期がありましたよね。「明日の広場」でしたっけ。

石丸)うん。「明日の広場」。明日の神話の広島誘致活動からの挫折を引き継いで、球場跡地を地球の祭り場にしようと。第2の平和公園っていうかね。第1が祈り、静寂の場だったら、すごくエネルギッシュな生命を謳歌するような広場にしたらいいんじゃないかっていうようなことはその内、「明日の広場」っていうことで集まってたよね。

榊 )その後なんとなく消えちゃったんだよね。

石丸)なんとなく消えたけど、でもイベント広場だからね、使い方で今から何とかなると思うけどね。

平石 )石丸さんはこれからしてみたいことってありますか?

石丸 )僕はもうフェードアウトして、好きなことを。

平石 )好きなこと、例えば何ですか。

松波)やっぱ祭りですかね。

平石)(笑) 結局!

石丸)祭り…それはわからない、こんどは祭りをゆっくり楽しむ側か?(笑)

文字起こし|丹田春果、野村拓也、平石もも
写真|松波静香
資料提供|石丸良道、丹田和宏、丹田春果
会場協力|NPO法人セトラひろしま
特別協力|岡本芳枝

令和4年度 文化庁 大学における文化芸術推進事業
事業名「街に介入する芸術、その公共性の議論を促すメディエーター養成プラットフォーム」
主催|広島市立大学 HACH (Hiroshima Arts&City Hive/広島芸術都市ハイヴ)
運営|ひろしまアートシーン運営事務局(gallery G内)

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